【瑛九】絵画の買取作家・取扱い一覧

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瑛九

瑛九
瑛九(1911~1960)
宮崎県出身の昭和時代に活躍した画家、芸術家です。
版画家や写真家としての顔を持ちますが、「フォトデッサン」と呼ばれるこれまでになかった技法を編み出した事で知られています。
当時の日本画壇を否定し続け、亡くなるまで正当な評価をされなかった瑛九は、誰よりも自由で因習にとらわれない芸術家として人生を貫き通しました。
 
瑛九は宮崎市内で眼科医院を営んでいる家に生まれましたが、極度の近眼だったため家業を継ぐ事はできませんでした。
小学校、中学校ではなじむ事ができず、ほとんど学校へは行っていなかった瑛九ですが、画家になる事を夢見ており、上京して美術学校に入学します。
しかし、そこで瑛九を待っていたのは型にはまった技術を修練するという瑛九とっては無意味に感じるくだらないものでした。
そのため、この頃から絵を描くことよりも美術評論を執筆することに熱中し、美術雑誌に盛んに投稿します。
15歳の時、はじめて掲載された内容はとても15歳の少年が書いたものとは思えない当時の画壇のあり方に鋭く切り込むものでした。
 
その後、徴兵検査を受ける事となりましたが、強い近眼にもかかわらず、メガネをわざと外し、やせた体にヨレヨレの着物をひっかけ、検査に出かけ見事に思惑通り不合格となり、戦時中であっても大好きな絵画の制作に熱中し、数々の公募展に出品を重ねますが、一度も入選する事はありませんでした。
当時、瑛九は自分の作品が世界で一番だと思っていました。
そのため、誰もこの素晴らしい作品を理解してくれない事に落胆し、やがて精神を蝕まれ奇行が見られるようになり、周りから心配されるほど病状は良いものではありませんでした。
それでも画家として生きる事をあきらめきれず、祈る思いで出品した作品が見事入選を果たし、その作品を見るために展示されている美術館へ行きましたが、「絵を審査する」という権威によって選ばれる事にばかばかしさを覚え、絵に対する考え方を一変しました。
そして生まれたのが油彩画でもなければ水彩画でもない、写真に使われる印画紙に光で陰影をつけて描き出す「フォトデッサン」でした。
画家の長谷川三郎と美術評論家の外山卯三郎は光と影が織りなす表現の斬新さに驚き、評価すると瑛九の名は「フォトデッサンの芸術家」として注目を集めました。
しかし、ひと握りの大家が絶大な権力を持つ画壇の現実に失望し、極度の不眠症に陥りながらも制作をやめなかったため病状は更に悪化していき、突然これまでの作品を全て焼き払ってしまいました。
 
戦後、既成概念にとらわれず、自己の芸術を自由に追求することを目標としたデモクラートという会を結成し、他の美術団体の公募展に参加しないということが唯一の決まり事でそれ以外は何をしても自由な美術団体でした。
そのため参加者には画家以外にも写真家、デザイナー、バレリーナや編集者など様々な人が集まり、若い芸術家たちは瑛九から様々な指導やアドバイスを受けました。
しかし、瑛九はデモクラートの会ができて時間が経てば経つほど、権威ができるという理由で活動期間6年で解散させてしまいました。
こうした美術活動は日本画壇で注目を集めていましたが、瑛九の作品は一向に売れませんでしたが、瑛九を経済的に支える人たちが表れました。
彼らは福井の小中学校の美術教師たちで、瑛九の講演に参加したのが縁で集まり、「福井瑛九会」を結成し、給料から資金を出し合い、毎月瑛九の作品を一点ずつ購入してくれました。
この出来事は日本画壇に正当に評価されなかった瑛九にとって、自分の作品を認めてくれた唯一の存在であった事で心が救われ、それが制作の活力となり、縦2.5m以上の大作「つばさ」を作成してこの世を去りました。
ちなみにこの「つばさ」という作品を制作するにあたって、高いところが苦手な瑛九は頑丈な脚立を自作したそうです。

瑛九年表


1911年 宮崎県で生まれる
1924年 宮崎県立宮崎中学校(現・宮崎県立大宮高等学校)に入学する
1925年 中学を退学し上京する
日本美術学校洋画科に入学する
この頃より油絵を描く
1927年 美術評論を書き始め「みずゑ」「アトリエ」などに投稿する
日本美術学校を退学する
1930年 オリエンタル写真学校に入学し写真の研究を行う
1931年 宮崎に帰り、徴兵検査を受けるも不合格となる
1932年 写真評論を離れて油絵の制作を開始する
1934年 兄・正臣の影響で、ザメンホフが創案した国際語エスペラント語を勉強し始める
1935年 中央美術展で入選する
1936年 印画紙による新しい作品を制作し上京する
久保貞次郎と共に画家・長谷川三郎を訪ねる
1937年 展覧会にフォト・モンタージュ作品を出品する
1938年 自由美術家協会を退会する
1939年 宮崎で瑛九・杉田秀夫個人展覧会を開催する
1940年 独立美術協会の研究所などに入る
1944年 腸捻転のため谷口外科病院に入院、手術を受ける
1945年 戦争を避け、宮崎県北諸県郡野尻村に疎開する
1946年 日本共産党に入党し各地で講演を行う
病気再発により6月に離党する
1948年 谷口都と結婚し、フォトデッサンの制作を再開する
1950年 東京で瑛九フォトデッサン展を開催する
1951年 デモクラート美術協会を結成する
1952年 デモクラート美術協会・東京第1回展を銀座松島画廊で開催する
1954年 久保貞次郎コレクションによる西洋版画展を開催する
1955年 瑛九フォトデッサン展を開催する
1956年 リトグラフの制作に専念する
1959年 油彩の大作の制作に没頭するも病床につく
1960年 病状が急変し急性心不全により48歳で逝去

1911年 宮崎県で生まれる

1924年 宮崎県立宮崎中学校(現・宮崎県立大宮高等学校)に入学する

1925年 中学を退学し上京する

00000年日本美術学校洋画科に入学する

00000年この頃より油絵を描く

1927年 美術評論を書き始め「みずゑ」「アトリエ」などに投稿する

00000年日本美術学校を退学する

1930年 オリエンタル写真学校に入学し写真の研究を行う

1931年 宮崎に帰り、徴兵検査を受けるも不合格となる

1932年 写真評論を離れて油絵の制作を開始する

1934年 兄・正臣の影響で、ザメンホフが創案した国際語エスペラント語を勉強し始める

1935年 中央美術展で入選する

1936年 印画紙による新しい作品を制作し上京する

00000年久保貞次郎と共に画家・長谷川三郎を訪ねる

1937年 展覧会にフォト・モンタージュ作品を出品する

1938年 自由美術家協会を退会する

1939年 宮崎で瑛九・杉田秀夫個人展覧会を開催する

1940年 独立美術協会の研究所などに入る

1944年 腸捻転のため谷口外科病院に入院、手術を受ける

1945年 戦争を避け、宮崎県北諸県郡野尻村に疎開する

1946年 日本共産党に入党し各地で講演を行う

00000年病気再発により6月に離党する

1948年 谷口都と結婚し、フォトデッサンの制作を再開する

1950年 東京で瑛九フォトデッサン展を開催する

1951年 デモクラート美術協会を結成する

1952年 デモクラート美術協会・東京第1回展を銀座松島画廊で開催する

1954年 久保貞次郎コレクションによる西洋版画展を開催する

1955年 瑛九フォトデッサン展を開催する

1956年 リトグラフの制作に専念する

1959年 油彩の大作の制作に没頭するも病床につく

1960年 病状が急変し急性心不全により48歳で逝去


瑛九代表作


『赤にむらがる黄』
『二つの楕円形』
『森のドラマ』
『ピエロ』
『舞踏会の夜』
『傷ましき顔』
『面影』

『赤にむらがる黄』

『二つの楕円形』

『森のドラマ』

『ピエロ』

『舞踏会の夜』

『傷ましき顔』

『面影』


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