【アルフォンス・ミュシャ】絵画の買取作家・取扱い一覧

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アルフォンス・ミュシャ

アルフォンス・ミュシャ
アルフォンス・ミュシャ(1860~1939)
アルフォンス・ミュシャはアールヌーヴォーを代表するデザイナーで画家でもあります。
作品はポスター、装飾パネル、カレンダー、シャンパンやブランデーのラベル、油絵では生涯屈指の出来栄えといわれている「スラヴ叙事詩」があります。
アールヌーヴォーの特徴でもある草花などをモチーフにし自由曲線を多用し、平面的な画面構成に女性モデルの個性などを上手く融合させ、数多くの商業用ポスターや挿絵を制作していました。
これらの作品は視覚的に嫌味を感じさせず、パリ時代に大流行し作家としての地位を確立しました。
作品の人気は今も健在で、アールヌーヴォー様式の代表格として広く知られており、平面的な表現は日本の浮世絵の影響を受けているともいわれています。
 
アルフォンス・ミュシャはチェコスロバキア南方で裁判所の官史をしていた父と家庭教師の母との間に生まれ、幼いころから絵が得意でした。
ブルノー中学に通い、聖ペトロフ教会聖歌隊となり、後にプラハにある美術学校の受験に失敗するとウィーンに赴き、舞台美術工房の助手となりますが失業してしまいました。
失業後はパトロンのエゴン伯爵の援助でミュンヘン美術学校に留学し、写実的表現を学びます。
卒業後はパリに向かい後期印象派を代表するポール・ゴーギャンと知り合う事が出来ました。
パリに赴き、しばらく経過した後に有名な舞台女優のサラ・ベルナール主演の「ジスモンダ」というキリスト教を主題とした文学作品のポスターを制作することになります。
当時、経済的に困窮していたアルフォンス・ミュシャはこれが出世作となり、「ジスモンダ」公開の翌年からサラ・ベルナーレと6年間の契約を結び経済的な困窮から脱出します。
ちなみに大反響を呼んだ「ジスモンダ」のポスターはわずか数日で制作したといわれている逸話のある伝説的なポスターといわれています。
 
画家としてはフランスを代表するロートレックらと共にサロン・デ・サンのグループ展に出品します。
その後も精力的に活動し名声を博し、アメリカに招かれました。
制作活動地をアメリカに移したアルフォンス・ミュシャはボストン交響音楽団のメタナ(わが祖国)に感銘を受け、出身地であるスラブ諸国文化の殿堂に励みました。
尽力したのち故郷のチェコに定住し、肺炎で亡くなるまでの間チェコの国家行事のポスターを手掛けるなど活躍していました。

アルフォンス・ミュシャ年表


1860年 現・チェコ共和国の南モラヴィア地方のイヴァンチッツェに生まれる
1877年 プラハの美術アカデミーを受験するが、不合格となる
1879年 ウィーンで演劇の舞台装置を作るカウツキー=ブリオシ=ブルクハルト工房で助手として働く
1881年 リング劇場が焼失し、工房従業員の一部解雇により、職を失う
1883年 エマホフ城の図書室と食堂の絵を修復する(1986年まで)
ミュンヘンの美術アカデミーに入学する
1887年 アカデミー・ジュリアンに入学する
1888年 アカデミー・コラロッシに移る
1889年 フランスとチェコの雑誌や書籍の挿絵を描き生計を立てようになる
1891年ポール・ゴーギャンと出会う
出版社アルマン・コランとの仕事を始める
1892年 歴史家シャルル・セニョボスの『ドイツ史の諸場面とエピソード』の挿絵を請け負う(1897年まで)
1894年 サラ・ベルナール主演の演劇『ジスモンダ』のポスターを請け負う
1895年 サラと6年間の正式契約を結ぶ
1896年 サラ・ベルナールのポスターや最初の装飾パネル『四季』を制作する
雑誌『ラ・プリュム』主催のサロン・デ・サンに参加する
1897年 『ジュルナル・デ・ザルティスト』誌が主催した初の個展を開催する
6月、サロン・デ・サンで2回目の個展開催する
『ラ・プリュム』誌がミュシャ特集号を発行する
1898年 ウィーン分離派協会に参加する
フリーメーソンのパリ支部の会員となる
アカデミー・コラロッシで教鞭を執る
1900年 フランツ・ヨーゼフ1世勲爵士に任ぜられる
1901年 レジオン・ドヌール勲章を受章する
1902年 『装飾資料集』出版する
1903年 後に妻となるマルシュカ・ヒティロヴァーと出会う
1905年 2度目のアメリカ訪問でニューヨーク、フィラデルフィア、シカゴで教鞭を執る
1906年 ニューヨークで展覧会開催する
マルシュカ・ヒティロヴァーとプラハで結婚する
1907年 ルーマニア皇帝から最高勲爵士を授与される
1909年 アメリカ・スラヴ協会設立する
1910年 活動の拠点をチェコに移す
1918年 チェコスロヴァキア共和国建国し、最初の切手、紙幣、国章のデザインを手がける
1926年 『愛、理性、知恵について』出版する
1931年 プラハ城の聖ヴィート大聖堂に新設された大司教礼拝堂のステンドグラスを制作する
ミュシャデザインの50コルナ紙幣が発行される
1938年肺炎を患う
1939年 フリーメーソンの会員であることを理由にゲシュタポに逮捕される(数日後釈放)
7月14日逝去

1860年 現・チェコ共和国の南モラヴィア地方のイヴァンチッツェに生まれる

1877年 プラハの美術アカデミーを受験するが、不合格となる

1879年 ウィーンで演劇の舞台装置を作るカウツキー=ブリオシ=ブルクハルト工房で助手として働く

1881年 リング劇場が焼失し、工房従業員の一部解雇により、職を失う

1883年 エマホフ城の図書室と食堂の絵を修復する(1986年まで)

00000年ミュンヘンの美術アカデミーに入学する

1887年 アカデミー・ジュリアンに入学する

1888年 アカデミー・コラロッシに移る

1889年 フランスとチェコの雑誌や書籍の挿絵を描き生計を立てようになる

1891年 ポール・ゴーギャンと出会う

00000年出版社アルマン・コランとの仕事を始める

1892年 歴史家シャルル・セニョボスの『ドイツ史の諸場面とエピソード』の挿絵を請け負う(1897年まで)

1894年 サラ・ベルナール主演の演劇『ジスモンダ』のポスターを請け負う

1895年 サラと6年間の正式契約を結ぶ

1896年 サラ・ベルナールのポスターや最初の装飾パネル『四季』を制作する

00000年雑誌『ラ・プリュム』主催のサロン・デ・サンに参加する

1897年 『ジュルナル・デ・ザルティスト』誌が主催した初の個展を開催する

00000年6月、サロン・デ・サンで2回目の個展開催する

00000年『ラ・プリュム』誌がミュシャ特集号を発行する

1898年 ウィーン分離派協会に参加する

00000年フリーメーソンのパリ支部の会員となる

00000年アカデミー・コラロッシで教鞭を執る


1900年 フランツ・ヨーゼフ1世勲爵士に任ぜられる

1901年 レジオン・ドヌール勲章を受章する

1902年 『装飾資料集』出版する

1903年 後に妻となるマルシュカ・ヒティロヴァーと出会う

1905年 2度目のアメリカ訪問でニューヨーク、フィラデルフィア、シカゴで教鞭を執る

1906年 ニューヨークで展覧会開催する

00000年マルシュカ・ヒティロヴァーとプラハで結婚する

1907年 ルーマニア皇帝から最高勲爵士を授与される

1909年 アメリカ・スラヴ協会設立する

1910年 活動の拠点をチェコに移す

1918年 チェコスロヴァキア共和国建国し、最初の切手、紙幣、国章のデザインを手がける

1926年 『愛、理性、知恵について』出版する

1931年 プラハ城の聖ヴィート大聖堂に新設された大司教礼拝堂のステンドグラスを制作する

00000年ミュシャデザインの50コルナ紙幣が発行される

1938年 肺炎を患う

1939年 フリーメーソンの会員であることを理由にゲシュタポに逮捕される(数日後釈放)

00000年7月14日逝去


アルフォンス・ミュシャ代表作


『ビザンティン風の頭部』
『四芸術』
『四つの宝石』
『四つの星』

『ビザンティン風の頭部』

『四芸術』

『四つの宝石』

『四つの星』


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