煎茶道【2016年買取・新着情報】

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新着情報

煎茶道

2016.1.21

煎茶道

茶の歴史における江戸時代の中期は、抹茶による茶道諸流のすみわけが発生した時期でした。

抹茶による茶道のそれぞれの教授体系が完成してくると、茶道文化の内容は硬く形式ばったものになってしまうことを余儀なくされます。

そこで、それまで道の文化としてはあまり注目されてこなかった「散茶」「工夫茶」がこの頃より省みられ新しい茶道として発足することとなります。

日本の煎茶道の始まりは江戸時代の初期、開祖は禅宗の流派の一つである黄檗宗を開いた隠元隆琦という僧侶であるとされています。

江戸初期の当時は煎茶自体が最新の中国文化であり、風雅と知性を追求した文人たちは古代中国の隠遁とした賢人のように振る舞い、道士服姿で哲学的な会話を楽しむ「煎茶趣味」が文人(当時の学者や知識人といった論客たち)の間に広まり流行しました。


売茶翁 高遊外

煎茶道の営みの先頭に立った人物が、売茶翁を標榜した柴山元昭(のちの高遊外)という人物でした。高遊外は黄檗禅(臨済宗の禅の一派)を中心に、幼い頃から刻苦勉励(心身を苦しめてまでも勉学に励むこと)し、その傍らで煎茶に深い関心を抱きました。

佐賀市蓮池町に生まれた高遊外は黄檗宗の禅僧として各地を巡り、長崎で煎茶を学びます。60歳を過ぎてから「売茶」を始めました。

高遊外は晩年になってからようやく売茶が中心の生活に入り「茶銭は黄金百溢(おうごんひゃくいつ)より半分銭までくれ次第、ただ呑みも勝手、ただよりはまけ申さず」 (訳:お茶の代金は小判二千両から半文までいくらでもかまわない。 ただで飲んでもけっこう。ただよりは負けない。)と書きのこしています。

売茶とは何か?ということを調べますと、自らが茶道具を背負って主に屋外を移動しながら、茶の定価を決めず、野山の路を行く人々に小さな茶器で香りよい茶葉で淹れた煎茶を振る舞ったということでした。

高遊外は日本で初めての喫茶店だともされる「通仙亭」という茶店も構えました。1600年代~1700年代におけるお茶は薬として珍重され、身分の高いひとでなければ手に入れられない高級品でした。その茶を一般庶民にも広めたのが高遊外売茶翁による売茶であり、どのような身分の人も受け入れ、売茶で翁が禅の教えを説きながら世の中で起こる様々な出来事について語り聞かせたことは、人々の間で広く評判になりました。

高遊外 交流

売茶翁(高遊外)の人物交流で特筆すべきは京都・宇治の永谷宗円との出会いでした。 売茶翁(高遊外)は1742年に宗円宅(現在の宇治田原町湯屋谷)を訪れ、永谷宗円が開発した製法の煎茶の風味の素晴らしい深さに驚き、茶事について語り合いながら一泊したと言われています。

ほかに売茶翁(高遊外)は、江戸時代の絵師で「樹花鳥獣図屏風」(中央に白い象が配置され、画面全体が升目で描かれた名作)や「動植彩絵」で有名な伊藤若冲と深い交流があり、若冲自らが「米斗翁」と茶人としての名を名乗るほどにインスパイアを与えました。若冲は、人物を描くことが極度に少なかったのですが、高遊外の肖像画を何点か遺しています。

禅の教えを説いて茶を振る舞った売茶翁(高遊外)のもとには多くの文人たちが集まり「売茶翁に一服接待されなければ一流の風流人とはいえない」というほど、売茶翁(高遊外)の茶を経験することが文人にとってのステータスとなるほど高く評価されました。

他に売茶翁(高遊外)の肖像画を描いたのは池大雅、松平定信、田能村竹田、渡辺華山、谷文晃、富岡鉄斎など錚々たる画家があがり、この時代にこれほど肖像画を描かれた人物は珍しく、売茶翁(高遊外)の他に居ないのではないかといわれております。

煎茶道と文人

やがて高遊外を中心に煎茶に関心をもつ文人のグループが形成され、それぞれの文人たちが育っていきました。その中の一人には江戸中期に大阪商人出身の文人として活躍し、「浪速の知の巨人」として有名な木村蒹葭堂(きむらけんかどう)も居りました。

また、相国寺の大典顕常が刊行した『茶経詳説』はこの時代の煎茶道にとり大きな業績でした。その後の煎茶道史は大枝流芳の『青湾茶話』(「煎茶仕様集」)が登場します。『雨月物語』で有名な、江戸時代の小説家・国学者として知られる上田秋成は、『清風瑣言』と題する茶書を残していますが、これは一般に考えられる茶法について書かれたものではなく、「煎茶」について記されたものとなっています。秋成は晩年に、『背振翁伝』(一名『茶神物語』)という精神的な深みと描写の精度の高い小品を残しており、そこでは茶を擬人化して葉を姓とする二人の兄弟にたとえ、わが国の茶の流れに抹茶の茶道と煎茶道との二つの方向性があったことを指摘しています。他にも膨大な数の煎茶書の刊行と共に、煎茶道も発展を遂げました。

しかし、売茶翁が亡くなってからは、煎茶道も流派に凝り固まる段階を迎えます。弟子たちによる茶道具に対する崇拝や血統へのこだわり、体系化された儀礼、独自の作法や美意識といった形式に支配されていきました。

煎茶が田能村竹田、頼山陽、青木木米らの文人に愛好され、文人茶の称を称したことも煎茶道の特徴として特筆すべき点となっており「祖」を隠元として、 池大雅、上田秋成、与謝蕪村、富岡鉄斎、橋本関雪 らが近代・明治の文人として煎茶に強い関心を持ち、いわの美術も買取をしている煎茶道具や中国から輸入した書道具を蒐集しました。

その後に田中鶴翁、小川可進、深田精一らは、抹茶の茶道にたよらず各々で煎茶の道を深めたといえるでしょう。そして佃一茶庵のような個別化や八橋売茶流にみられる地方への進出拡大も、煎茶道の軌跡を表します。

煎茶道と現在

日本の煎茶道の始まりは江戸時代の初期、開祖は禅宗の流派の一つである黄檗宗を開いた隠元隆琦という僧侶であるとされていることから、日本煎茶道連盟の事務局は京都の黄檗山萬福寺におかれており、現在でも日本煎茶道連盟の会長は萬福寺の管長が兼務することが慣わしとなっています。

茶席という現場に的を絞ると、抹茶道から脱出しつつ抹茶道のことを取り入れているという矛盾を抱えながらも煎茶道は取捨の歴史を繰り返して、絶妙な間隔とバランスを持った「棲み分け」を実現してきました。道具の使用についての歴史のまとめ役となるのは、花月庵 田中鶴翁の宗匠派です。しかし幕末から明治にかけての煎茶道の隆盛期には、宗匠派とは異なる道を選んだ文人たちが、優れた足跡や見ごたえのある稀少な煎茶道具を残しています。

煎茶道は大正時代に入ってから茶道と比較して下火になった時期もあったものの、煎茶道の茶人は苦難の時期に芸を磨く事を怠りませんでした。昭和四十年代に入ってから抹茶の茶道の世界で家元制度の社会化が主流になると煎茶の人口が増え始め、小さな流派が全国にバラバラと立ち、それぞれの流儀で教えている状態で今日に至っています。そして、昭和四十年代から現在までの間に、”煎茶”を標榜しつつも煎茶に手を染めず、香り、味の心地が良い玉露による淹茶ばかり人気があり愛好されているということは、現代の煎茶道文化において顕著な特色であるとみなす必要があるようです。

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