いわの美術では九谷焼のお買取りをしております!
今回ご紹介したいのは日本を代表する色絵磁器である九谷焼です。
独自の色彩と大胆な筆致が魅力の九谷焼は今もなお日本だけでなく世界中からも評価されています。
「絵付けが命」とも言われていますが、九谷焼にはいくつもの絵付様式があり、360年以上の長い歴史の間に様々な個性の違う九谷焼が生まれてきました。
~九谷焼のはじまり~
九谷焼のはじまりは江戸の前期(1655年頃)、加賀国江沼郡九谷村(現在の石川県江沼郡山中町九谷)の大聖寺藩の初代藩主である前田利治(まえだとしはる)のもとで、鉱山の開発中に磁器の原料となる陶石が発見されたことがきっかけとなります。
陶工 後藤才次郎(ごとうさいじろう)を肥前有田へ派遣させ、その時学んだ技術を導入して窯を開いたとされています。そして、その地で焼かれた作品は「九谷焼」と名付けられました。(但し、昭和20年代頃から、九谷焼の産地については有田(伊万里)で作られた説や後藤才次郎が素地を有田から移入し九谷で絵付けのみをしたという説などの論争が起こりました)
それから約40年後、九谷焼は一度閉窯してしまいますが、この間に焼かれた九谷焼のことを「古九谷」と呼んでいます。
九谷焼が幕を閉じた原因については諸説ありまして、大聖寺藩の財政難による窯の資金不足であるとか、古九谷の出来栄えが素晴らしすぎて中国からの密貿易品ではないかと疑いがかかった、など様々に推測されましたがどれも定かではないようです。
~古九谷の作風~
「古九谷」の図柄は、花鳥、山水、風景が多く、屏風絵風な図柄や中国風なものなど様々です。絵画的にも完成されており、青、黄、赤、紫、紺青の5彩を用いたとても大胆な構図で力強い印象があります。
九谷焼の特徴として磁器素地の白色がやや青みがかっていますが、これは陶石に含まれる成分が関係していると考えられます。更に素地が粗雑であったため素地の余白が見えないほどに表も裏も絵具で覆い隠すように厚く色を入れた塗埋技法を用いたものもあります。このような手法を用いた「青手古九谷」と呼ばれているものは古九谷の代表的な作品のひとつです。
~九谷焼の復活~
「古九谷」の閉窯から約100年後の江戸の後期、九谷焼は再興します。
加賀藩によって、京都から文人画家の青木木米(あおきもくべい)を招き「春日山窯」を開き、これを皮切りに「吉田屋窯」「宮本屋窯」「永楽窯」などが次々と開窯します。それぞれ窯ごとに特徴のある作品が生まれました。この頃に焼かれた作品は「再興九谷」と呼ばれています。
なかでも幕末から明治初期の久谷庄三(くたにしょうざ)の作品は、この頃産業的に発展を遂げた九谷の中心となり明治以降に世界的に注目されています。
~再興九谷の代表的な作風~
◆木米風…素地に赤色を施し、5彩で中国風な人物を描き込んだ様式
◆吉田屋風…再興九谷の中では最も高い評価を受けています。大聖寺の豪商である豊田伝衛門(よしだやでんえもん)が開いた吉田屋窯(吉田屋は豊田家の屋号)で、赤を用いず、紺青、緑、黄、紫の4彩を用いた作風は最も古九谷を受け継いでいます。吉田屋窯の絵の具は古九谷よりも落ち着いた渋さがあるといわれており、青手古九谷の塗埋様式を取り入れた重圧感のある作風で「青九谷」とも呼ばれています。
◆飯田屋風…吉田屋窯の閉鎖後、吉田屋窯の支配人であった宮本屋宇右衛門(みやもとやうえもん)により「宮本屋窯」として再開しました。赤絵の描写に優れていた主工の飯田屋八郎右衛門(いいだやはちろうえもん)が中心となり赤で細密な人物画などを描き周囲を小紋などで埋め尽くした画風は「赤九谷」や「八郎手」とも呼ばれています。更に随所に金彩を施した「金襴手」の技法も開発しています。
◆永楽風…京都の陶工 永楽和全(えいらくわぜん)を招いて焼かれたもので、前面に赤を塗り埋め、その上に金のみで模様を描いたとても豪華な雰囲気の「金襴手」が中心です。
◆庄三風…名工 九谷庄三は輸入された洋絵の具をいち早く取入れ新たな色彩を生み出しました。緻密な赤絵に色絵と金彩を施し、古九谷から再興九谷の全ての技法を取入れた「彩色金襴手」という華やかな絵付をしています。
この技法の九谷焼は明治以降に海外へ大量に輸出されました。
このように幾つもの作風を持つ九谷焼は時代の流れとともに変化しながら美術工芸品としてのブランドを確立していきます。
~現代九谷の代表的な作風~
昭和から現代に至るまで九谷焼は進化し続けています。人間国宝である三代目 徳田八十吉(とくだやそきち)はこれまでの九谷焼の画風ではなく色の配色のみで作品を仕上げています。また同じく人間国宝の吉田美統(よしだみのり)は金箔で模様を表現しています。
◆三代目 徳田八十吉 … それまで九谷焼の特徴とされた九谷5彩の中のガラス成分のない赤は使用せず、緑、黄、紺青、紫の4彩を基本として色を作っています。三代徳田八十吉は祖父である初代八十吉から釉薬を直接伝授されたといいます。伝授されたのは10数種程度の色彩でしたが、独自の研究を重ねることで更に数百もの色を作り出し、作品は色彩のグラデーションによって表現されています。三代八十吉はこの独自の色彩を「燿彩(ようさい)」と呼びました。呼び名の通り光り輝く色鮮やかな作品となっています。これは九谷焼の新たな作風で「彩釉(さいゆう)」という技法です。焼成温度を従来よりも200℃以上も高温にするというのも特徴のひとつで深い色味を出しています。
◆吉田美統 … 釉薬と釉薬の間に金箔を施すというもので、厚さの違う金箔で濃淡や遠近感を出し金箔を配置することにより模様を作り上げています。吉田美統は九谷焼の窯元 錦山窯の三代目であり、錦山窯は色絵、金襴手などを得意とする窯でした。吉田美統は九谷焼の伝統を守りながらも独自の表現を模索する日々のなか「釉裏金彩」の技法に出会います。陶芸家 加藤土師萌(かとうはじめ)の遺作展で「釉裏金彩」を目にしたことがきっかけといいます。彩色は金箔と背景の色だけというシンプルなものですが、極薄の金箔は静電気や湿気に弱く取扱いが困難で製作には高度な技術を要します。困難を極める完成までの工程を吉田美統は独自の高度な手法によって仕上げています。
古九谷から現代九谷まで様々な作風の九谷焼を見てきましたが、いわの美術ではこのような九谷焼のお買取りをしております。ご自宅に眠っている九谷焼がございましたら是非信頼と実績のあるいわの美術までお問合せ下さい。
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