浅見五郎助は京焼を代表する名家として五郎助の名前が代々襲名されており、巧みな技術は今現在まで大事に受け継がれ、1943年には通産省から三島手技術保存作家へと認定されました。
現在の6代・浅見五郎助は、1951年に5代五郎助の長男として誕生し、京都市工芸試験場にて窯業研修を修了し、またその後渡米し陶芸研究に努めました。
1987年に6代目を襲名し、「三島」や「刷毛目」の技法を代々伝承する窯元としてだけではなく、近年では螺鈿や金彩、掻落により装飾を加えた作品など新しい表現方法も目にすることができます。
初代は江戸時代に活躍した陶工であり、摂津国(現・大阪府高槻市)の武家出身で、本名は「辰親」と言いますがのちに「五郎助」となります。
摂津高槻藩士・樋口宗親の次男として誕生していますが、その後京都の浅見家の養子となります。
そして2代・清水六兵衛に陶法を学び、1852年に独立して陶芸の里として有名な京都五条坂に開窯しました。
土石には天草や信楽、京都のものを使用しており、また磁器、陶器共に制作し菓子鉢、抹茶碗、酒器等の器物や茶陶が多く作られました。
他にも浅見五郎助は、白く精密な磁器の生地に青海波、七宝、格子などの連続している幾何学模様を染付で繊細に描いた祥瑞の写しを得意としており、自ら「祥瑞五郎助」と名乗りました。