飯塚桃葉は江戸時代を代表する蒔絵師の一人で、通称「源六」といい、「観松斎」を号とし、また阿波徳島藩御用蒔絵師としても活躍したと言われています。
飯塚桃葉は1764年に徳島藩主の蜂須賀重喜に召し出され、「桃葉」と改名し、細工銘を「観松斎知足」にするよう命じられました。
藩主重喜より下駄に蒔絵をするように依頼されましたが、それが礼を失するとして断るなど職人気質な性格も見られ、逆にその芯の強さが重喜に気に入られたとも伝えられています。
作品には1764年から1772年頃のものが多く残されていますが、大部分は1769年に重喜が藩政改革の失敗により隠居させられた後のものでした。
その後飯塚桃葉は次の藩主の直支配となりますが、前藩主である重喜の幕府への憤りや身を持て余す姿を見て、印籠や文房具、茶道具、武具、調度類など多数製作し慰めていたと言われています。
また宮内庁に所蔵されている「宇治川蛍蒔絵料紙硯箱」は明治維新後に蜂須賀家より皇室へと献上され、その硯箱の側面には「観松斎 桃葉造」の銘が蒔絵で記されていることも有名です。
飯塚桃葉は印籠蒔絵の技法に優れ、高蒔絵に金貝や切金を併用するなど精細で華やかな作風で有名ですが、豪華な蒔絵だけでなく墨絵のような研切蒔絵も見ることができます。
また絵画や指頭画も得意としており、藩主の御前で席画もしたとも伝えられています。