江戸時代中期から後期にかけて活躍した陶工で、京焼で最初に磁器焼成に成功したため「京焼の磁祖」と呼ばれており、日本陶芸史に果たした役割は大きいと言われています。
また奥田頴川は京焼に古染付、呉須赤絵、交趾など中国風の絵付けを施し、その中でも呉須赤絵を得意としており当時一大ブームを起こしました。
奥田頴川は本名「頴川庸徳」、通称「茂右衛門」といい、「頴川」とは号で実家の姓でもあり、奥田頴川の先祖は明時代に動乱を避けて中国より帰化した富豪であったと伝えらえています。
奥田頴川は縁があって京の質屋「丸屋」の当主である奥田家の養子となり4代目を継ぐことになりますが、商売よりも文化活動に向いていたのか商売は番頭に任せてしまい、読書に夢中になって芸事に精を出していました。
特に陶芸に熱を上げ、30代までは家業を営みますがその後息子に譲り作陶の道を志し、清水焼の名工である海老屋清兵衛に師事します。
その後、頴川と号して建仁寺内に開窯すると当時評判であった伊万里焼を研究し、京都近郊の比良山と鹿背山の土を混ぜる製法を見つけ出して京焼初の磁器焼成に成功しました。
また中国の呉須赤絵は鉢や大皿であったのに対し、奥田頴川は花鳥や魚文、獣文を取り入れた呉須赤絵写しの茶陶や置物、食器、文房具など多くの種類を手掛けました。
さらには明時代から清時代に中国南部で造られた緑・黄・紫などの鮮やかな色彩と精緻な文様表現に特色のある交趾焼でも優れた作品を生み出し、青銅器を模した大型香炉などを製作し評判となりました。
奥田頴川がこの世を去った後、多くの作品は菩提寺である建仁寺に奉納されました。
また奥田頴川は門下から、青木木米、仁阿弥道八、欽古堂亀祐といった名工を輩出し、京焼の発展に大きく貢献しました。