尾形光琳のお品買取ります
尾形光琳は江戸中期の画家、工芸家である。
幼名、惟富(これとみ)、通称、市之丞。35歳頃から光琳と称した。
1658年、京都の呉服商の尾形宗謙の次男として生まれる。少年時代から能楽、茶道、書道などに親しむ。絵画については、最初は父に手ほどきを受けたが、後に山本素軒について狩野派の画法を学び、やがて俵谷宗達や本阿弥光悦の作品に引かれていく。
1687年、光琳30歳の時、父宗謙が逝去。その頃から画業に集中するようになる。44歳になった1701年には法橋(高僧に与えられる僧位の一つ)に叙せられる。光琳の作品には制作年代を確定できるものは少なく、多くの作品に「法橋光琳」の落款が見られることから、本格的な絵画を描いたのは法橋位を得た頃から58歳で没するまでの十数年間と推定されている。光琳の2大傑作のひとつ「燕子花図」(かきつばたず)屏風は、法橋位を得た頃の作品といわれている。1704年には、親交のあった京都の銀座(貨幣鋳造所)の役人である中村内蔵助の肖像画を描いた。
同じ年には、江戸詰となった中村を頼り、江戸へ下る。光琳は公家、大名、役人など多くのパトロンを持っており、冬木家(江戸深川の豪商)由来では「冬木小袖」、津軽家に伝来したものでは「紅白梅図」屏風などがある。数度の江戸行きの後、1711年54歳の時、京都に新居を構え、精力的に制作に打ち込むとともに、画風の大成を推し進めた。
光琳の絵には、雅で優美な伝統(古典)を感じさせる大和絵的な描写の中に、斬新な構図や画面展開を取り入れ、俵谷宗達のような明瞭かつ装飾的でありながら革新的な独自の様式を確立。その革新性の高い独自の様式は、当時最大の画派であった狩野派とは一線を画し、今なお琳派最大の絵師のひとりとして高い評価を得ている。
また工芸の分野でも優れた才能を発揮し、「八橋蒔絵硯箱」「白地秋草模様小袖」などの傑作を残している。
1716年7月、逝去。享年58歳。