有田焼は佐賀県有田町を中心に泉山陶石、天草陶石などを原料として焼かれる磁器の総称で、その昔、積み出しが伊万里港からなされていたことにより伊万里焼と呼ばれる事も多く、英語でも「Imari」の名で知られています。
明治以降に輸送手段が船から鉄道などの陸上交通を使用するようになってから、有田地区の製品を「有田焼」、伊万里地区の製品を「伊万里焼」と区別するようになりました。
また、製造された時期や様式などによって初期伊万里、古九谷様式、柿右衛門様式、金襴手などに大別され、献上用の極上品のみを藩窯で焼いた鍋島藩のものが「鍋島様式」、皇室に納められたものを「禁裏様式」と呼んでいます。
有田焼が本格的に始められる前に、器が厚く染付(藍色の下絵の絵の具である呉須)のみで釉薬がとろりとした絵付けが荒い磁器が作られており、これを「初期伊万里」と呼んでいます。
初期伊万里はオランダの東インド会社によってヨーロッパ各地に輸出され、ヨーロッパの王侯貴族の中には熱狂的なコレクターが多かった事でも知られています。
数ある有田焼の中でも一番流行したのが「柿右衛門様式」という赤や黒で細く輪郭を描いた後、赤、緑、黄で着色された文様が特徴で、濁手という乳白色の素地に余白を生かした絵画的な構図を持つ磁器です。
これはヨーロッパの各名窯も影響を受け、ドイツのマイセン窯やフランスのシャンティイ窯では「シノワズリ(東洋趣味)」などと呼ばれ、定番の図案になりました。
江戸時代になると「金襴手様式」という豪華絢爛な現代にも引き継がれている様式が誕生します。
これは経済的に豊であった元禄時代の気風を反映したものと考えられており、濃い染付に赤や金の絵の具を贅沢に使って、花文様などを器面いっぱいに描き込んだ作品で、全体的に装飾効果が高く、輸送されたヨーロッパで好まれ、現在でも大型の壷など多くの作品が世界各地の博物館や城に飾られています。
しかし、貿易が衰退し、美濃や瀬戸での磁器の生産などによって幕末の有田焼は慢性的な不況が続きます。
それを打破しようと有田の豪商久富与次兵衛が一手販売の権利を獲得し、製品に「蔵春亭三保造」という銘を入れ有田焼にブランド名を入れた最初の製品を世に送り出します。
しかし、これは独占的な海外輸出であったため、他の商人や窯焼きたちの反感を買う事になり、有田の地では一時混乱が起きましたが廃藩置県により、営業が自由となった事で再び有田には活気が戻ってきました。
有田焼の完成度を上げるためにドイツの化学者ゴットフリード・ワグネルを招き、西洋の窯業知識を学び、呉須に代わるコバルトという絵具を使用する染付方法を伝授され、色あざやかで濃淡の表現力が格段に上がった有田焼が作られるようになりました。
また、窯の改良も行い、これまでの窯は山の斜面に築かれ、薪で焚かれる登り窯で焼成していましたが、改良された窯は平地で石炭で焼くという日本で初めての試みが成され、有田だけではなく日本全国へ広がっていきました。
明治時代に入ると万国博覧会で名声を得る事に成功し、総合商社機能を持つ日本で最初の貿易商社・起立工商会社が誕生します。
続いて香蘭社、精磁会社、深川製磁などが設立され、万国博覧会では金賞・金牌などを獲得するなど有田焼は世界中で知られる磁器となりました。
その後、工業用製品や碍子の需要が増大し、生産が伸びましたが昭和に入ると瀬戸や美濃の磁器に価格面で押され、生産が縮小してしまいます。
しかし、柿右衛門製陶技術保存会および、色鍋技術保存会が国の無形重要文化財保持団体として認定され、天狗谷窯跡、山辺田窯跡、泉山磁石場が国の史跡に、上有田地区の町並みが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されるなど再び注目される存在となりました。
現在の有田焼は食器の生産が中心である事には変わりはありませんが、タイル、碍子、耐酸磁器、ファインセラミックス製品など工業製品の製造も行われており、時代に合った焼物として発展し続けています。
また、有田焼で活躍する作家には酒井田柿右衛門、今泉今右衛門、井上萬二、中村清六、葉山有樹、高森誠司などが挙げられ、伝統技法を守り続けている作家、伝統技法を守りながらも新しい有田焼の可能性を引き出そうと尽力している作家などが活躍しています。