【犬山焼】買取作家・取扱い一覧 骨董品

犬山焼

犬山焼
犬山焼(1751~現在)

犬山焼を買取ります

 
江戸時代に自給自足が基本となっていた諸藩の殖産興業策によって、各地に「国焼」といわれるような焼物が数多く誕生し、犬山焼きもこのような国焼の一つとして考えられている焼物です。
犬山焼は技術、品質の高さや美しさは高く評価されており、1つの器に桜と紅葉の文様を同時にとりあわせ描かれた「雲錦手」や「赤絵」の作品が特徴です。
 
犬山焼の歴史は江戸時代の初めごろ、犬山市東部の今井に窯を築いたのが始まりとされています。
今井窯では、美濃焼の陶工による瀬戸風の飴色釉や黒色釉を施し、主に日用品として制作が行われていましたが、3代目藩主・奥村太右衛門が亡くなると廃窯してしまいました。
そんな中、当時の犬山城城主第7代成瀬正壽は今井窯の廃絶を惜しんで犬山焼の再興をはかります。
犬山上本町の島屋惣九朗に命じて燃料用松材を丸山付近の山林から伐採することを許すなどの援助行い丸山窯を創業させます。
その後、上本町の住人で綿屋太兵衛(大島暉意)がこの窯を譲り受け、京都三条の粟田焼きの陶工であった藤兵衛、久兵衛を雇います。
大根焼という粟田焼に似せた薄手の陶器を焼きますが、半焼けや疵物(きずもの)ばかりでとても採算の取れるものではありませんでした。
次に綿屋太兵衛は瀬戸系の信頼のおける陶工・加藤清蔵を招いて挽回をはかる事にします。
加藤清蔵は若いながらもロクロ挽きの名手で窯焼きにも熟練しており、丸山に住んで作陶に専念しました。
ついでに師段味から来た加藤寅蔵も合流し、染付磁器の制作も始まりました。
 
しかし、綿屋太兵衛は10年近い歳月の間にかなりの資金をつぎ込み、経営は職人任せであった事から自分への利益はほとんど還元されなかったため事業から手を引く事を決意します。
城主・成瀬正壽は犬山焼の発展の兆しがようやく見えてきた頃だったため加藤清蔵に資金を援助して窯主とし、師段味から水野吉平が来て赤絵付けの技術がもたらされました。
更に名古屋伝馬町の筆墨商大学堂の紹介で陶画工・逸兵衛を雇い入れ加藤寅蔵の作り出した純白の素地の上に「赤絵」を施す犬山焼の基本を生み出しました。
城主・成瀬正壽はこの機を逸せず犬山焼を振興するように更に援助を行いました。
その後、城主・成瀬正壽が亡くなり、8代城主・成瀬正住が跡を継ぐと城郭内の三光寺御殿の庭に絵付窯を築造させ、城主の財力で蒐集した明代の赤絵呉須の大皿や鉢などを手本にして模写させるなど犬山焼は驚異的な進歩を遂げました。
また、画家・福本雪潭に春秋にちなんで桜ともみじの下絵を描かせこれに倣って絵付けを命じて作らせた「雲錦手」もこの時に誕生しました。
 
それでも犬山焼は経済的危機に直面し、存続が危ぶまれていましたが、犬山城主成瀬家の御用瓦師・尾関作十郎が経営に参加した事で犬山焼の全てが守られ、現在は尾関窯として犬山焼の本窯元として現在も尾関作十郎の子孫が窯の火を守り続けています。

犬山焼年表


1751年 この頃から制作が始まる
1781年 一時断絶する
1810年 島屋惣九朗が再興を命じられる
1817年 綿屋太兵衛が窯を譲り受ける
1822年 加藤清蔵を呼び寄せる
1826年 加藤寅蔵を呼び寄せられ、染付磁器の制作が始まる
1831年 水野吉平が招かれ、赤絵付けの制作が始まる
1835年 陶画工・逸兵衛を雇う
1853年 川本治兵衛が祥瑞写しの染付け磁器を制作する
1866年 尾関作十郎が経営に加わる

1751年 この頃から制作が始まる

1781年 一時断絶する

1810年 島屋惣九朗が再興を命じられる

1817年 綿屋太兵衛が窯を譲り受ける

1822年 加藤清蔵を呼び寄せる

1826年 加藤寅蔵を呼び寄せられ、染付磁器の制作が始まる

1831年 水野吉平が招かれ、赤絵付けの制作が始まる

1835年 陶画工・逸兵衛を雇う

1853年 川本治兵衛が祥瑞写しの染付け磁器を制作する

1866年 尾関作十郎が経営に加わる


犬山焼代表作

『赤絵魚藻文大皿』

犬山焼花瓶
犬山焼花瓶
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