本阿弥光悦のお品を買取ります
本阿弥光悦は京都出身の江戸時代初期に活躍した書家、陶芸家、芸術家で、書に関しては「寛永の三筆」と称され、德川家光に「天下の重宝」と言わしめた達人として知られ、光悦流の祖といわれています。
本名は多賀といい、通称は次郎三郎といいます。
別号に自得斎、徳友斎、太虚庵などがあります。
刀剣の鑑定、研磨、浄拭(ぬぐい)を家業とする本阿弥家8代・本阿弥光二の長男として生まれました。
小さい頃から刀剣に関わる工芸技術を見てきており、工芸に対する高い見識眼を育んでいき、身につけた工芸知識を元に好きで勉強していた和歌や書の教養を反映した芸術作品を創造するようになりました。
のちに家業を継ぎますが、一方で陶芸、蒔絵、書などを作成しています。
陶芸では轆轤を使わずに手とヘラで整えた手びねりで制作し、茶碗の箱書きに自分で署名を入れ、制作者が自分で名を刻むんだのは日本陶芸史上初めての事で、当時茶碗は芸術作品としての認識が薄かったが、この出来事によって芸術作品として捉える見方が強まりました。
次に、蒔絵では見た物をそっくりに描いて終わりという従来のものではなく、対象となった物をデザイン化して再構成したり、文字を絵の一部として装飾化して加え、これらを駆使して日用品を作る事で美術品を観賞用ではなく、生活道具の一部として暮らしに密着させようと試みました。
最後に書家としては、俵屋宗達との合作が広く知られており、宗達の絵の上に光悦の書を書くという大胆な取り組みで、絶妙な文字のバランスで書が絵を活かし、絵もまた書を活かすという従来の常識を打ち破った作品を作り上げました。
また、徳川家康から鷹峯の地を拝領し、本阿弥一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住し、洛北鷹峯に芸術村(光悦村)を築いたことでも知られ、亡くなるまでこの地で過ごしました。
光悦の死後、屋敷は日蓮宗の寺(光悦寺)となっています。
こうした事から光悦は多才で後の日本の美術界に大きく影響を与えた人物として知られています。
代表作に「国宝・楽焼片身替茶碗:銘不二山」、「国宝・船橋蒔絵硯」などがあります。