万古焼を買取ります
万古焼(ばんこやき)は三重県四日市市の代表的な地場産業と知られています。
万古焼は「萬古焼」と書かれることもあり、陶器と磁器の間の性質をもつ半磁器に分類されます。
万古焼は耐熱性に優れた特徴がある事から急須や土鍋で広く知られており、土鍋の国内シェアは70~80%を占めています。
また土鍋や急須の他にも、蚊取り線香を安定して燃焼させる蚊遣器(かやりき)の豚の形をした「蚊遣豚」でも知られています。
万古焼は三重県桑名の豪商、沼波弄山(ぬなみろうざん)が現在の三重郡朝日町で創始したとされており、自身の作品に「萬古」「萬古不易」の印を捺したのが名前の由来で、京焼の技法を尾形乾山に学んで制作された沼波弄山の作品は現在「古萬古」と呼ばれています。
また将軍家からの依頼を受け江戸に移住し江戸小梅で窯を設けた頃に焼かれた作品は「江戸萬古」とされています。
この時期の万古焼は徳川吉宗の洋書解禁令により蘭学が広がっていたため、オランダ文字やオランダの風景など異国情緒あふれ、上絵付に赤絵を施した作風が主流でした。
沼波弄山が亡くなると万古焼の歴史は途絶えますが、およそ100年後に森有節・千秋の兄弟により「桑名萬古焼」「有節萬古」として再興され、「摘山」「有節」「萬古有節」「日本有節」の印が使われるようになります。
この時期は外国文化より、日本の文化を尊ぶ国学が盛んになっていた事もあり、華麗な粉砕による大和絵の絵付けと煎茶で必要とされる急須を木型で成型する手法が生まれ、東海道の土産物として大人気となり桑名藩主の保護奨励を受けました。
その後、森有節の秘密にしていた陶法が漏洩すると模倣者が多く現れ、様々な進化を遂げ、幕末から明治にかけて最盛期を迎え、「射和萬古(いざわばんこ)」「阿漕焼(あこぎやき)」「四日市萬古」「赤萬古」などが生まれています。
明治末期に入ると不況により業界は伸び悩んでいました。
それを打破する一手として西洋の硬質陶器の研究に励み、半磁器質特殊硬質陶器を生み出します。
丁度その頃、大正へと改元の時期と重なっていた事もあり、「大正焼」として売り出すと大ヒットとなりました。
昭和に入るとイギリスで考案されていた硬質陶器を四日市で完成させ、世界へ輸出が始まりました。
しかし、戦争が始まると60%を締めていたアメリカへの輸出が途絶え、代わりに戦時下に必要な耐火煉瓦などの製造に着手していましたが、戦後は白雲陶器の大量生産に成功し、四日市研究所が「ボーンチャイナ」を完成させました。
こうして戦後は鍋食器や花器類が安定したシェアを確保し、四日市萬古焼は国の伝統的工芸品に指定され、急須など生活に結び付いた生活陶器を生産し現在に至ります。