並河七宝を買取ります
並河七宝とは明治時代に活躍した日本の七宝家・並河靖之(なみかわやすゆき)によって生み出された七宝のことで、有線七宝という技法を用いて制作されています。
その作品の一つ一つがとても小さく、その小さな世界に間をいかした画面構成と色彩感覚を見ることができ、微細な手作業から創り出す繊細で優美な七宝は手間がかかるため残された作品の数は少ないとされています。
また、明治時代の工芸品は外貨を獲得するために海外へと輸出されていたため、日本人の目に触れることが少なく、馴染みの少なかった並河七宝ですが、海外では七宝といえば「Namikawa」としてその名が認められていました。
並河七宝は10センチ程度の小さな作品にも関わらず、当時のロンドンで働く事務員の年収に匹敵する価格でアメリカの美術館や富豪たちに買い取られていました。
日本国内でも皇室や宮内省に買い取られ、海外要人・賓客や国内の功労者への下賜品となっていました。
そのため、並河靖之の工房で保存していた作品以外は日本国内にはほとんど残っておらず、長年忘れ去られた存在となっていました。
清水三年坂美術館が海外から並河靖之の作品を含めた明治時代の工芸品を買い戻すようになり、テレビでも取り上げられるようになってからその存在を日本国内でも知られるようになり、並河七宝の素晴らしさが再評価されました。
並河七宝を作り上げるために並河靖之は焼成する際の時間や温度について、気の遠くなるような試行錯誤を重ねて多くの色彩やグラデーションを生み出しました。
そして何よりも黒色透明釉というこれまでの七宝作品では存在しなかった透明感のある深い黒を生み出し、図柄の背景色として使用され、図柄をより一層鮮やかに際立たせる事に成功しました。
また、並河靖之の家の家紋が蝶だった事もあり、モチーフに蝶が用いられているものが多く存在します。
こうして一大ブームを巻き起こした並河七宝でしたが、大正時代に入ると人件費の高騰や物価高騰、外国人観光客の減少から七宝の輸出量が激減してしまい、大きな損失を受けた並河靖之は工房を閉鎖する事となり、一代限りのロストテクノロジーとなってしまいました。