安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した刀工・金工一派の事で、その始祖である埋忠明寿は足利将軍家の御用をつとめた名家の家系に生まれ、三条宗近二十五世の子孫と称し家系を誇示しています。
また、豊臣秀吉、秀次、徳川秀忠などの知遇を得ていたと伝えられています。
埋忠明寿は桃山時代の工芸界を代表する作家でもあり、現在でも埋忠明寿の残した作品は重要無形文化財や重要美術品の指定を受けたものが多く、その技量は高く評価されています。
埋忠明寿の作風は京都の文様文化を装剣金工上に表現した芸術品と言っても過言ではないほど美しく、真鍮、赤銅、素銅などの地金に平象嵌の手法で植物図や事物図を文様化して表現したものを得意としていました。
また、この時代に急速に高まった本阿弥光悦や俵屋宗達などに通じる琳派の美意識を取り入れた作風も見られます。
こうして、2代以降は山城国(現・京都府)を中心に江戸や肥前など各地に分布し、大いに繁栄していき、多くの優秀な門人たちが優秀な作品を残しています。
鍔のみが製作されており、小柄笄目貫の類は製作されていないのが埋忠派の特徴でもあります。