現・京都府出身の江戸時代末期に活躍した後藤派の装剣金工です。
室町時代から続く、後藤家一門の最後を飾った人物として知られています。
はじめは家風にしたがった作品を制作していましたが、龍や獅子を題材にした目貫、笄、小柄の3種を同一作者、同一意匠とした三所物(みところもの)の制作をよく行っていました。
また、後藤家では禁じられていた鉄地のものも制作し、「伯応」「凸凹山人」「一意」などの別銘を切っています。
後藤家の分家である七郎右衛門家4代・重乗の次男として京都に生まれた後藤一乗は、9歳の時に八郎兵衛謙乗の養子となります。
その後、11歳の時に半左衛門亀乗に師事し、15歳で八郎兵衛家6代目の家督を相続して八郎兵衛光貨と名乗っていました。
続けて21歳の時に光行と、30歳のときに光代と改名しており、この頃には後藤宗家四郎兵衛家の加役である大判の墨書書き改めや分銅の製作など、京都における業務を分担するほどの実力を持っていました。
そのため、孝明天皇の御剣金具の制作を任されており、その功績により法眼の位を与えられています。
61歳の頃には幕府に召されて江戸に赴き、芝新銀座で1000人扶持を支給されましたが、明治維新後は京都へ戻り、同地でこの世を去りました。