現・京都府出身の江戸時代初期に活躍した装剣金工です。
後藤四郎兵衛家(後藤本家)の8代目を襲名しておりますが、襲名してからわずか4年という短い期間でこの世を去っています。
歴代の中でも上手ではありますが、活躍期間が短かったため自身銘の作品の数が非常に少なく、現在のところ三所物(みところもの)が一組のみ確認されています。
その他には後藤家の後代の極めが若干数存在するくらいで、尾張熱田神宮、名古屋徳川美術館などに極め銘三所物が所蔵されています。
後藤家は室町時代~江戸時代にかけて御用達の彫金を家職としてきた一門で、足利、織田、豊臣、徳川の各将軍家の御用をつとめ、刀装具などの彫金作品を制作してきました。
その中でも後藤本家は室町幕府第8代将軍・足利義政に仕えた後藤祐乗を祖とし、5代・徳乗のとき四郎兵衛(しろべえ)と称して以来、当主は通称として四郎兵衛を名乗るようになり、後藤即乗は6代・栄乗の次男として生まれました。
しかし、後藤即乗が18歳の時に父が病気でこの世を去り、後藤四郎兵衛家当主をつとめるには技術が未熟であったため、父・栄乗の弟である顕乗が一時的に7代目を襲名する事になりました。
その後、7代・顕乗の下で修行を積んでいましたが、徳川家光の招きにより江戸に移住する事になります。
江戸では本領の山城国250石に加えて江戸詰め役料20人扶持となり、本白銀町3丁目に屋敷を拝領し、ついに技量が後藤四郎兵衛家当主としてふさわしいと判断され、8代目を襲名しました。
後藤家は江戸時代に入ると大判座、分銅座を主宰して特権的職人の地位を占める存在として活躍していたため、後藤即乗も江戸で貨幣製造に大きく関係した存在でした。