備前長船の名工である小松兼光が打った刀で
現在は福岡県立博物館に所蔵されています。
「黒田家伝来の刀」としても知られていますが
黒田家に渡るまで、様々な伝説が残されています。
黒田孝高は、九州での戦いを豊臣秀吉に認められ、
豊前6群を与えられる事となりました。
しかし、その場所を治めていた城井鎮房は、
祖父伝来の地と家宝を守るために反発しました。
これに怒った豊臣秀吉は黒田孝高(父)と黒田長政(子)を
城井谷城へ向かわせ、成敗を命じました。
当時「君主の命令は絶対」とされ有無を言えない状態で
黒田長政が城井鎮房を暗殺しました。
そして、その時に使用した刀を「城井兼光」と名付けたそうです。