室町時代~江戸時代にかけて御用達の彫金を家職としてきた一門で、足利、織田、豊臣、徳川の各将軍家の御用をつとめ、刀装具などの彫金作品を提供しました。
後藤本家は室町幕府第8代将軍・足利義政に仕えた後藤祐乗を祖とし、5代・徳乗のとき四郎兵衛(しろべえ)と称して以来、当主は通称として四郎兵衛を名乗り、明治時代まで17代続きました。
後藤本家は、豊臣秀吉の時代に天正大判や千枚分銅の製造を命じられ、江戸時代に入ると大判座、分銅座を主宰して特権的職人の地位を占める存在でした。
また、小判鋳造を手がけた金座の後藤庄三郎家と区別するため、大判座後藤(おおばんざごとう)とも呼ばれ、茶屋四郎次郎家、角倉了以家と共に京都の三長者として知られています。
ちなみに小判座初代当主・後藤庄三郎光次は本姓を橋本あるいは山崎と言ったそうで、後藤四郎兵衛家の職人として働いていた時、5代・徳乗にその才能を抜擢され後藤を名乗ることを許されたと言われています。
後藤本家は室町幕府の時代から御用達彫金師として仕え、織田信長、豊臣秀吉の刀剣装身具、大判鋳造の御用達もつとめていましたが、関ヶ原の合戦において5代・徳乗は石田三成方につき、大坂の陣においても豊臣方についたことから後藤家は分家し、後藤本家は蟄居の生活を送る事になってしまいました。
一方で、徳川方についた弟の長乗は後藤本家が絶えるのを憂いて家康に赦免を取り付け、天正大判は5代・徳乗による墨判となっています。
その後、10代・廉乗の時に幕府から江戸定詰を命じられるようになると、京都在住の後藤の脇後藤と呼ばれる分家と江戸の四郎兵衛家との間に対立が生じるようになります。
その対立はやがて、近年四郎兵衛家が独占しがちとなっている大判の墨判を京都方にも命じてもらう様、京都奉行所に訴えるという事態まで発展し、大きな騒動となりました。
そんな後藤本家ですが、初代・祐乗から7代・顕乗までの後藤屋敷は京都上京柳原にあり、8代・即乗は徳川幕府により江戸詰を命じられ、本白銀町三丁目に屋敷を拝領しました。
10代・廉乗の時代では用達町人上座となり江戸神田永富町に屋敷拝領しましたが、明暦の大火により江戸の後藤屋敷は焼失し、先祖以来の記録や家系図が失われてしまいました。
そのため、後藤本家については現在も研究が進められており、多くの研究者たちがその解明に尽力しています。
その後、明暦の大火による焼損金銀吹き直しの功労により扶持石高250石を与えられた後藤本家は、江戸定詰となり、銀座の京橋新両替町一丁目(現・東京中央区銀座)に改めて屋敷を拝領しました。