美濃国出身の室町時代に活躍した日本の装剣金工です。
後藤四郎兵衛家(後藤本家)の祖として知られ、通称の「四郎兵衛」は後代の後藤家当主が名乗るようになります。
後藤祐乗は名工として知られていますが、在銘品はなく、すべてが後の後藤家に極められた物だけです。
その作品は、目貫、小柄、笄の3種を同一作者、同一意匠で揃えた三所物(みところもの)を主に制作しており、これまで主流であった鉄の代りに良質な金・赤銅の地金に龍・獅子などの文様を絵師・狩野元信の下絵によって魚々子地の技法を用いて高肉彫で表したものが多く見られます。
この他の意匠としては、虎、濡烏、三番叟、能道具、花卉など実に多彩です。
後藤祐乗は平安時代の武将である藤原利仁の末裔といわれている後藤基綱の子として生まれました。
足利義政の側近の軍士として仕えていましたが、18歳の時に同僚からありもしない事柄を作り上げられ、足利義政の逆鱗に触れ入獄となってしまいました。
入獄中、神輿船14艘・猿63匹の彫刻作品を制作し、その出来栄えに感嘆した足利義政は後藤祐乗を赦免し、装剣金工として仕える事を命じます。
こうして、後藤祐乗は装剣金工として積極的に活動を開始します。
美濃彫を集めて研究を重ね、格調のある後藤彫を創始し、これは後藤一門の伝統の基礎となり、今日の刀装具の基本にもなりました。
その後、次男の宗乗が家督を継ぎ、後藤本家として、織田信長、豊臣秀吉、徳川家と明治時代まで17代続き、それぞれが大役を果たしています。
ちなみに「祐乗」「宗乗」「乗真」という宗家三名は「上三代」と称され、武家の間でとても好まれていたそうです。