江戸出身の江戸時代中期に活躍した装剣金工です。
後藤四郎兵衛家(後藤本家)の12代目を襲名しており、名は「光孝」と称していました。
後藤家の伝統技法を守った作品を多く制作しており、10代・廉乗に次いで歴代2番目の長きに渡り、後藤四郎兵衛家の当主をつとめました。
良工で後藤家の掟通りの作品を残しており、目貫、小柄、笄の3種を同一人物、同一意匠とする三所物(みところもの)を得意とし、それ以外の作品も残しました。
後藤四郎兵衛家は室町時代~江戸時代にかけて御用達の彫金を家職としてきた一門で、室町幕府第8代将軍・足利義政に仕えた後藤祐乗を祖としています。
後藤延乗は、12代・後藤寿乗の長男として生まれました。
後藤四郎兵衛家は江戸時代に入ってから大判座、分銅座を主宰して特権的職人の地位を占める存在であったため、父・後藤寿乗は「享保大判金」の墨書きを命じられており、後藤延乗も「享保大判金」の墨書きを行いました。
また、大判および分銅の役を命じられ、確かな貨幣の製造も行っています。
後藤延乗は多くの門人を抱えていた事でも知られており、中でも戸張富久(とばりとみひさ)は自ら龍や獅子などの下絵を描き彫刻しており、絵師・酒井抱一の下絵を用いた事でとても有名です。