江戸時代末期~明治時代初期に活躍した日本の装剣金工です。
後藤四郎兵衛家(後藤本家)の17代目で、最後の後藤本家の当主をつとめました。
20歳という若さで襲名していますが後藤本家の嫡男として生まれたわけではなく、16代・方乗の子が金座役となってしまったため、門人であった後藤典乗が養子となって後藤本家を継ぐ事になりました。
後藤典乗は後藤本家の嫡男ではありませんが、後藤本家7代・顕乗の血を引いている家系に生まれています。
後藤典乗が活躍した時期は幕末から明治へと時代が移り変わる激動の時代であったため、残された作品も少なく、特に秀でた部分もなかったため、作品は平凡と評されています。
歴代と同様に大判および分銅の役と大判への墨書きを行っており、「享保大判」、吹き増し大判である「天保大判」、そして最後の「万延大判」の墨書きを行いました。
後藤家は室町時代~江戸時代にかけて御用達の彫金を家職としてきた一門で、足利、織田、豊臣、徳川の各将軍家の御用をつとめ、刀装具などの彫金作品を手掛けてきた家系です。
江戸時代が終わるまでの400年間、本家や分家などが金工界をリードしてきた存在として活躍を見せました。
特に後藤本家は、室町幕府第8代将軍・足利義政に仕えた後藤祐乗を祖とし、豊臣秀吉の時代に天正大判や千枚分銅の製造を命じられ、江戸時代では大判座、分銅座を主宰して特権的職人の地位を占める存在として圧倒的な力を持っていました。
その最後を飾った後藤典乗は、特に目だった功績もなく、与えられた役目を淡々とこなしていくだけだったと言われています。