江戸時代末期から大正時代に活躍した刀工です。
1830年に伯耆国大柿(鳥取県倉吉市大柿)に
醸造家の次男として生まれました。
本名は「宮本志賀彦」で、幼少時代は「沢次郎」と称しています。
平安時代に伯耆国で活躍した「安綱」に憧れ、刀工を目指し
備前国(岡山県)の長船で活動していた「横山祐包」の門人となりました。
以後、七年間に渡り備前伝を学び、修得すると
師の裕包の「包」の一字を賜り「包則」と名を改めました。
1857年に伯耆国へ戻ると、
領主である「荒尾志摩」のお抱え鍛冶として約六年間活躍しました。
その後は独立し、山城国(京都府)で鍛冶場を設けて
勤王のために上洛した藩士の注文に応じて作刀を続けました。
この功績を有栖川宮熾仁親王に認められ、
「孝明天皇」の御剣を作刀し「能登守」を受領しました。
1876年の廃刀令により、作刀機会が激減しましたが
伊勢神宮の宝剣・鉾・鏃などを作刀しています。
そして、1906年に月山貞一と共に「帝室技芸員」となり、
皇室の刀剣類を数多く作刀し、1926年に逝去しました。
日本各地で作刀を行い、後世の刀工にに多大な影響を残した
名工のひとりとして現在でも高い人気を誇っています。