江戸時代末期に活躍した刀工で、本名は「山浦環」です。
1813年に信州国に生まれ、刀工を志した兄と共に
上田藩の刀工「河村寿隆」から技術を学びました。
その後は軍学者で剣術家でもある「窪田清音」の門人となりましたが
武術よりも作刀技術を窪田清音に見出され、作刀に専念すると
努力と技術を評価され窪田清音から「清」の一時を受領しました。
しかし、「武器講一百之一」を一振り完成させると
作刀を辞め、いきなり長州へと逃避してしまいました。
その後、約二年間の月日を長州で過ごした後に江戸へ戻り
窪田清音へ罪を詫び、証として豪刀を贈りました。
この豪刀は後に重要美術品に指定されています。
そして作刀を再開しましたが、
1854年の42歳の時に自害していしまいました。
理由には諸説あり、明確なものは分かっていません。
こうした波乱万丈な人生を送ったことと
高い技術で生み出された作刀は現在でも高い人気を誇っています。