南北朝時代に山城国(京都府)で活躍した刀工で、
「信国派」の始祖としても有名です。
来派の刀工である「了戒」の門人となり、作刀を学び、
長谷部国重と共に山城国に相州伝を広めました。
そして、1440年の「三代目信国」の代で
豊前国(大分県)宇佐郡の「安心院吉門」のお抱え鍛冶となり、
以後、十一代目までお抱え鍛冶としての活動が続きました。
山城国から豊前国へ移り、作刀を行ったことから
以後の信国派を「豊前信国派」と呼んでいます。
室町時代初期になると信国銘を切る刀工が急増しており、
この時代に作刀された刀を「応永信国」と呼んでいます。
その後、1582年に安心院吉門が滅ぼされると
信国派の刀工らは筑前国(福岡県)などへ逃れ、移住しました。
以後の信国派は「筑前信国派」と呼ばれています。