仁王派とは鎌倉時代中期より南北朝時代に活躍した周防国(現在の山口県)刀工一派を指し、「二王派」と表記されることもあります。
初代に清平、二代に清真、三代に清綱とする説や、初代に清真、二代に清平、三代に清綱とする説がありますが、初代二代に名を挙げられた両名の作刀が現存していないため、清綱を祖とするのが現在の通説となっています。
仁王派の作風は大和色が強く、大和伝系の刀工一派として知られています。気質の強い見事な直刃調の物が多く、匂い口が締りごころとなり、刃のうるむ処があり、地鉄に柾が交じり白け映りの立つ見どころがあります。
大和に影響を受けている理由としては、祖である清綱が大和国(現在の奈良県)から移住してきていることや、周防国にはやくから荘園が発達して東大寺領になったために多くの寺領が存在し、大和本国との交流が盛んであったことなどがあげられます。
一門の多くは『清』の字を冠し、代表的な刀工には清綱の他に清房、清定、清重などがいました。
仁王(二王)の名については諸説ありますが、有名なものでは周防国の仁王堂が火事にあったとき、仁王像を繋いでいた鎖を清綱の太刀で断ち切り、仁王像を救い出したことが由来とされています。仁王像がわざわざ鎖で繋がれていたことについてはこの像が運慶の作で、仁王像が夜な夜な抜け出て住人を脅かすためだとも言われています。
その後、仁王像の鎖を切断したことから彼の刀は神威を認められ、江戸時代初期には、仁王清綱の刀は狐憑きや疫病をも治すという迷信が広まりました。