室町時代末期~江戸時代に活躍した装剣金工一派です。
「正阿弥」という名の由来が、足利将軍に近侍した「阿弥衆」であることは間違いないとされています。
この「阿弥」という号は、室町時代の文化人が号として名乗る者が多く、これは庶民の芸術への直接参加が盛んになったことと関系があるといわれています。
また、平民階級がそのままの身分で貴族階級と同席することに抵抗があったため、教養を身につけ、一芸に秀でた者は僧籍に当たる「阿弥」という身分となって貴族と対等の交友を持つことができました。
そんな正阿弥派ですが、山城国(現・京都)を拠点に活動して大いに栄え、江戸時代になると伊予・阿波・会津・庄内・秋田ほか各地に20派以上が分派していきました。
鉄地に金象眼を施した華やかな作品が多く、圧倒的な技術力を誇っており、図柄を残し、地を抜いた地透鐔(じすかしつば)を創始しました。
これは後に埋忠明寿、金家、信家など名工たちがそれぞれ独自の境地を開き、鐔の芸術性を更に高めています。
正阿弥派の作品は桃山期までのものを「古正阿弥」と称し、桃山期以降は鉄地に金・銀象眼を施した作品が多くなりました。