別名「鉄砲切り兼光」「雷切」とも呼ばれています。
「竹俣兼光」は、当初農民が所持していたと言われています。
ある日、村に雷雨が起こり農民が雷を避けるため、
とっさに所持していた刀を頭上に捧げ持つと
刀に落雷しましたが農民は無傷で雷雨も止みました。
その刀を見てみると血がついており「雷を斬った」と言われました。
その話が領主であった竹俣三河守朝綱の耳に入り、
献上することとなりました。
しかし竹俣三河守朝綱の君主であった上杉謙信の耳にも
この話が届いており、竹俣三河守朝綱から上杉謙信に献上されました。
その後は上杉謙信の愛刀となり、合戦の時に使用されました。
その戦いの中で、一人の武将を竹俣兼光で斬り伏せた時に
鎧や兜、武将が所持していた鉄砲までも断ち切っていたそうです。
それほど切れ味の良い「竹俣兼光」は
上杉謙信の死後、上杉景勝が遺品として継承しました。
そして、いくらか時が経ったある日、
上杉景勝は京の刀工に竹俣兼光を修理させました。
無事に戻ってきた竹俣兼光を竹俣三河守朝綱が見てみると
ハバキから一寸五分ほどのシノギに
馬の毛を通すほどの大きさの穴があり、偽物だと発覚しました。
上杉景勝は急いで京へ家臣を向かわせ本物の行方を捜し、
本物を発見すると偽物に関わった人全てを処罰しました。
その後、兜や鎧までも斬る刀の噂を耳にした豊臣秀吉が
「竹俣兼光」を献上させ所持してましたが
大阪城落城の時に落ち武者が持ち逃げてしまい行方不明となりました。
徳川家康が金300枚を出すことを条件に探させましたが
現在も見つかっていません。