【岡本太郎】買取作家・取扱い一覧 美術品

岡本太郎

岡本太郎
岡本太郎(1911~1966)

岡本太郎の作品を買取ります

 
岡本太郎は神奈川県出身の日本の芸術家で、洋画家、工芸家、彫刻家として数多くの作品を残しています。
メディアへの露出も多く、認知度の高い芸術家としても知られ、「職業は人間」「芸術は爆発だ」「芸術は呪術だ」「グラスの底に顔があっても良いじゃないか」などの名言を残している事でも知られています。
また、縄文時代や沖縄のプリミティブな美術を再評価するなど、文筆活動も精力的に行いました。
 
父親は漫画家で、母親は作家、祖父は書家という芸術一家に生まれた岡本太郎は幼い頃から絵を描く事が大好きでした。
しかし、父親は仕事の付き合いなどで浪費家であり、母親は家事や育児を放棄し、作家活動に明け暮れ、夫公認で愛人を家に住まわすなど決して良い家庭環境ではありませんでした。
そのため、中学生になると何のために絵を描いているのか疑問を持つようになり、画家になる事に迷いながらも東京美術学校へ進学します。
父親の仕事の関係でロンドンへ行く事になると東京美術学校を休学し、フランスへ渡ります。
フランスではフランス語を勉強し、「何のために画を描くのか」という疑問に対する答えを見つけるため、絵とは関係のない哲学、心理学、民俗学などを学びました。
しかし、芸術に対しての迷いは消える事はなく、完全にどうしたら良いのか分からなくなってきた頃、たまたま立ち寄った画廊でピカソの作品を目にして強い衝撃を受け、ピカソを越える芸術家になる事を目標に掲げ、本格的に芸術活動を行うようになります。
こうして抽象美術運動やシュルレアリスム運動などに参加し、自らの作風を築き上げている最中、ドイツのパリ侵攻をきっかけに日本へ帰国する事となり、二科展や個展で作品を発表していきます。
しかし、戦争によって出兵となり、芸術活動は一時中断となりますが、兵役中は師団長の肖像画を依頼されるなど従軍中にも関わらず、比較的優遇されていたようです。
 
戦後、自宅とこれまでの作品は焼失してしまいましたが、芸術家・岡本太郎としては新しい第一歩と考え、アトリエを青山へ移し、文芸評論家の花田清輝や埴谷雄高などと前衛芸術会「夜の会」を結成し、現代芸術研究所を設立してこれまでに見た事ないような前衛的な作品を発表していきます。
その作品はエネルギッシュな「ピカソを超える」と誓った岡本太郎ならではの作品で、大阪万国博覧会のシンボル・タワー「太陽の塔」や東京オリンピック、札幌オリンピックの記念メダルのデザインなど大きな仕事の依頼を受けるようになり、日本国内にもたくさんのモニュメントが設置されるまでになりました。
こうして岡本太郎は今までの芸術界の常識を打ち破った芸術家として現在でも世界中で高く評価されています。
 
また、スキーや野球などスポーツが好きで、オリンピックの記念メダルのデザインの依頼を受ける際、選手として声を掛けられたのかと勘違いするほど、スポーツ万能だったそうです。

岡本太郎年表


1911年 神奈川県で生まれる
1917年 東京・青山の青南小学校に入学する
1918年 2回の転校ののち、東京・渋谷の慶應幼稚舎に入学する
1929年 慶應義塾普通部を卒業する
東京美術学校洋画科入学するが、父親の仕事の関係で休学し、フランスへ渡る
1940年 パリ陥落に伴い帰国する
1942年 召集され、中国にて自動車隊の輜重兵として軍隊生活を送る
1946年 復員し、東京都世田谷区上野毛にアトリエを構える
1947年 後に養女となる平野敏子と出会う
1948年 花田清輝、埴谷雄高らと「夜の会」を結成する
1952年 東京国立博物館で初めて縄文土器に触れ、衝撃を受ける
1954年 アトリエを青山に移し「現代芸術研究所」を設立する
1955年 ヘリコプターで銀座の夜空に光で絵を描く
1956年 旧東京都庁舎に「日の壁」「月の壁」など11の陶板レリーフを制作する
1957年 46歳にしてスキーを始める
1959年 初めて沖縄に旅行する
1964年 東京オリンピックの参加メダルの表側をデザインする
1965年 名古屋の久国寺に梵鐘「歓喜」を制作する
1968年 初めての建築作品「マミ会館」が竣工する
1970年 大阪の日本万国博覧会のシンボル「太陽の塔」を制作する
1973年 岡本太郎デザインの飛行船レインボー号が空を飛ぶ
1974年 NHK放送センター・ロビーにレリーフ壁画「天に舞う」を制作する
1977年 スペイン国立版画院に日本人作家として初めて銅版画が収蔵される
1978年 テレビ番組「もう一つの旅」撮影のために訪れたマヨルカ島で、
ショパンが使用したピアノを弾く
1979年 はじめての著作集が講談社から刊行される
1981年 初めてコンピューターで絵を描く
1984年 フランス政府より芸術文化勲章を受ける
1986年 福井県三方町で復元された縄文前期の丸木舟の進水式で舟長として舟を漕ぐ
1988年 ダスキンのCMに出演する
1991年 東京都庁舎移転のため、旧庁舎に設置されていた陶板レリーフが取り壊される。
1994年 三重県で開催される世界祝祭博覧会のシンボルモニュメント「であい」を制作する
1996年 急性呼吸不全のため慶應義塾大学病院にて逝去

1911年 神奈川県で生まれる

1917年 東京・青山の青南小学校に入学する

1918年 2回の転校ののち、東京・渋谷の慶應幼稚舎に入学する

1929年 慶應義塾普通部を卒業する

00000年東京美術学校洋画科入学するが、父親の仕事の関係で休学し、フランスへ渡る

1940年 パリ陥落に伴い帰国する

1942年 召集され、中国にて自動車隊の輜重兵として軍隊生活を送る

1946年 復員し、東京都世田谷区上野毛にアトリエを構える

1947年 後に養女となる平野敏子と出会う

1948年 花田清輝、埴谷雄高らと「夜の会」を結成する

1952年 東京国立博物館で初めて縄文土器に触れ、衝撃を受ける

1954年 アトリエを青山に移し「現代芸術研究所」を設立する

1955年 ヘリコプターで銀座の夜空に光で絵を描く

1956年 旧東京都庁舎に「日の壁」「月の壁」など11の陶板レリーフを制作する

1957年 46歳にしてスキーを始める

1959年 初めて沖縄に旅行する

1964年 東京オリンピックの参加メダルの表側をデザインする

1965年 名古屋の久国寺に梵鐘「歓喜」を制作する

1968年 初めての建築作品「マミ会館」が竣工する

1970年 大阪の日本万国博覧会のシンボル「太陽の塔」を制作する

1973年 岡本太郎デザインの飛行船レインボー号が空を飛ぶ

1974年 NHK放送センター・ロビーにレリーフ壁画「天に舞う」を制作する

1977年 スペイン国立版画院に日本人作家として初めて銅版画が収蔵される

1978年 テレビ番組「もう一つの旅」撮影のために訪れたマヨルカ島で、

00000年ショパンが使用したピアノを弾く

1979年 はじめての著作集が講談社から刊行される

1981年 初めてコンピューターで絵を描く

1984年 フランス政府より芸術文化勲章を受ける

1986年 福井県三方町で復元された縄文前期の丸木舟の進水式で舟長として舟を漕ぐ

1988年 ダスキンのCMに出演する

1991年 東京都庁舎移転のため、旧庁舎に設置されていた陶板レリーフが取り壊される。

1994年 三重県で開催される世界祝祭博覧会のシンボルモニュメント「であい」を制作する

1996年 急性呼吸不全のため慶應義塾大学病院にて逝去


岡本太郎代表作

『森の掟』

『太陽の塔』

『母の塔』

『子供の樹』

『燃える人』

『縄文土器』

『明日の神話』

『横顔の少女』

ティーセット・夢の鳥
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