1831-1910
室町時代から伝わる漆芸蒔絵、幸阿弥派の系譜を受け継ぐ最後の漆工家といわれ、幕末から明治にかけて活躍しました。
幕末期には将軍家の婚礼や祭事に際して調度品を制作、明治改元後には宮内省の御用を多く務め、ウィーン万国博覧会を始めとした国内外の博覧会に出品し、蒔絵の分野において、現在の人間国宝にあたる帝室技芸員に任命されています。
略歴
江戸浅草に生まれた一朝は、自ら進んで絵本の模写をするなど、幼い頃から絵を描くことが好きでした。その様子から両親は一朝を蒔絵師にしようと、一朝が12才の時、知人の紹介を通じて、徳川将軍家の御用蒔絵師棟梁であった幸阿弥因幡長賢の仕手頭で、印籠蒔絵師の名工として知られた武井藤助(2代目)に入門させます。一朝は通い弟子として修業を積み、21歳で独立、開業しています。
独立後は、幕府のお抱え蒔絵師として、徳川将軍家宮殿の調度品をはじめ、皇女和宮や天璋院篤姫の輿入れの際に「葵葉菊紋散花桐唐草蒔絵嗽台(うがいだい)」などの婚礼調度を製作した他、大名や公家の依頼を受けて、蒔絵製作に従事しました。
のちに、江戸幕府へ蒔絵器物を調進していた漆器商の新井半兵衛から制作依頼を受けるようになりますが、激動の明治維新をきっかけに、それまでの幕府や大名の庇護を失った一朝にとって、この新井家との関係こそが、その後の蒔絵師としての活躍に大きく影響することになります。
新井家は、維新後、海外の万国博覧会に精力的に出品していきますが、一朝にも作品の制作者として加わるよう依頼します。これに応じて一朝は、ウィーン万国博覧会に「富士十二景蒔絵書棚」を出品したのを皮切りに、第1回内国勧業博覧会にて家紋賞、同第2回博覧会では妙技賞を受賞しています。
多くの蒔絵師がそれまでの後ろ盾を失って生活に困窮するなか、一朝はこうして展覧会に出品した作品が高く評価されることで、新たな活路を見出し、蒔絵師として腕を揮い続けることができたのです。
卓越した技術で名声を得た一朝は、しだいに明治政府からも仕事の依頼を受けるようになり、65歳の時には帝室技芸員に選出され、翌年には白山松哉の代行として東京美術学校の教授に就任しています。
室町時代から続く伝統と一朝作品
一朝が受け継いだ幸阿弥派は、室町時代に出現し、初代道長が第8代将軍足利義政に仕えて以来、足利家、豊臣家、徳川家に抱えられて権勢を張った蒔絵師の流派で、代々御即位調度などの制作にあたりました。
幸阿弥の元祖道長は、義政の側近として務めるかたわら、蒔絵を習得し、同朋衆として蒔絵をもって仕えるようになります。義政の命に従って能楽器の鼓胴に蒔絵を試みたのも、おそらく幸阿弥が最初であったと伝わっており、このことからも不整形な曲面に意匠を工夫するだけの高い技術力の持ち主だったことが分かります。
また『幸阿弥家伝書』によると、2代目道清は、下絵を絵師に頼らず自身で工夫していたと記されており、それまでの蒔絵師にはなかった試みからも、無双の名人と称される所以が推察されます。
こうして代々伝承された名匠たちによる技法の流れを受け継いだ一朝は、堅実な写生力と卓越した加飾技術で、精緻な意匠を創り出して格式のある華麗な蒔絵を製作しました。
またその作品群を万博や国内の主要な展覧会に意欲的に発表することにより、一時は活躍の場を失って衰退の一途を辿っていた日本の漆工芸はヨーロッパにおいて隆盛を極め、日本が誇る、奥深く複雑な蒔絵技巧の素晴らしさを世界に知らしめることに繋がりました。