1845-1927
明治から昭和初期にかけて活躍した七宝作家。
有線七宝で頂点を極め日本を代表する七宝家として、現在のいわゆる人間国宝にあたる 帝室技芸員に任命されました。手のひらにのるほどの小さな作品に四季折々の花鳥風月を細かな筆使いと豊かな色彩で表現し、「超絶技巧」と称された華麗な世界を奏でる七宝の名匠として世界を魅了しました。
明治時代の七宝
七宝とは、ガラス質の釉薬を金属や陶磁器を素材とした器に施して焼成し研磨したもので、その技法のバリエーションは多岐に渡ります。
中でも、並河が生涯に渡って追及し続けたのは近代七宝の原点としても知られる有線七宝で、下絵に沿って細いテープ状の金属線を這わせ、その間に釉薬を差して焼成や研磨を繰り返して仕上げる大変手間のかかる製法です。
有線七宝に対し、無線七宝の技法を確立したのが東京の濤川惣助で、京都で活躍する並河とともに「東に濤川氏あり西に並河氏あり」と『二人のナミカワ』と称され、共に高く評価されました。
技術者それぞれの作品にたいする創意工夫により、明治10年代前半の日本の七宝業は幕末以来の製造方法を顕著に前進させました。その称賛からも、時代を反映した当時の七宝業の急速な成長と充実をうかがい知ることができます。
時代とともに変遷する七宝
遥か西アジアを起源とする七宝は、日本へは近代初期に技法が伝わり、主に建造物の飾金具や装身具に用いられてきました。幕末に一旦は需要が下火となりますが、明治維新後に再び盛んとなり、日本政府が貴重な外貨を獲得するために打ち出した殖産興業の一環として工芸品の欧米への輸出を奨励するようになると、七宝は新たな時代の産業として急激な成長を遂げていきます。
また、明治期の七宝業は、その伝承が限られた家系や技術者のみによって行われていた時代とは異なり、またそれまでの伝統的な技法を受け継ぐものでもなく、いわば庶民による当時のベンチャー産業として、万国博覧会などを通じ、日本のものづくりの先進性や芸術性を世界に知らしめるものになりました。この中で、抜群のセンスと技術力をもって頭角を現したのが、並河靖之だったのです。
並河靖之 略歴
1845年に京都の武家に生まれ、11歳のときに並河家の養子となって家業を継ぎ、時の当主であった久邇宮朝彦親王に近侍として仕えます。
明治維新後に中国七宝の模倣を制作し、宮家に仕えるかたわらで七宝会社を設立して作家としての歩みを始めました。
明治政府による殖産興業と国威発揚の時代の波に乗り、並河は積極的に国内外の展覧会に作品を出品するようになると、1876年にフィラデルフィア万国博覧会にて銅賞、翌年には第1回内国勧業博覧会にて鳳紋賞牌、1878年パリ万国博覧会で銀賞受賞するなど、数々の輝かしい受賞を重ねます。その高い技術は政府にも認められ、1893年に緑綬褒章を授与、1896年には帝室技芸員に任命されました。
時代の波にのり順調に躍進を遂げた並河の業績も、日露戦争を経て、大正期に入ると人件費の高騰や物価高などの理由からその勢いは失速、歴史の中で息づいた七宝は瞬く間にその輝きを失ってかつての栄光は影を潜めます。そのため、並河は1923年に工房を閉鎖し、廃業を決意します。その4年後に病に倒れ、83歳でその生涯を閉じました。
作品の特徴と業績
数々の受賞を重ねながらも、並河は作品制作のかたわらで研究を重ね、独自の七宝釉薬の開発に励みました。その結果、泥七宝と称される透過性のない不透明な釉薬から艶やかで光沢のある色彩の釉薬改良に成功し、グラデーションの豊かな色彩表現を可能にしています。
色の表現に強いこだわりを持つ並河が作品の地の色に好んで使った新しい漆黒の透明釉薬は「並河の黒」として知られ、色彩豊かに描かれた花鳥をより一層際立たせました。しかしその扱いは非常に難しく、他の作家の追随を許さなかったほどだと言われています。
このような独自の技法を駆使した作品が万博などに出品されると、その名声は大勢の外国人を日本への旅へ誘い、並河の工房には多くの文化人が訪れるようになりました。並河が七宝を営んだ三条通り白川沿いの界隈には、数十軒の七宝製造所が林立するなどし、京都七宝の産地となり賑わいをみせました。
大正期には衰退の一途を辿った七宝ですが、現在では並河作品群の素晴らしさに目覚めた蒐集家などが海外からの買い戻しをして再び評価され、注目を集めるようになっています。並河靖之七宝記念館では数多くの作品が所蔵され、時代を越えて人々の心を魅了するだけではなく、2008年には国の登録有形文化財にも指定されています。