おもに明治時代に東京を拠点として活躍した七宝家
従来の有線七宝の技法から、濃淡やぼかしなどの写実的で立体感のある絵画的表現を可能にした無線七宝とよばれる革新的な技法を発明し、七宝の世界に新たな美をもたらしました。優れた創意と技術、作品の芸術性で帝室技芸員に任命されています。
七宝のパイオニア
濤川惣助は、1847年下総国(現在の千葉県)に農家の二男として生まれました。18歳で上京して職を転々としたのち、明治維新後に陶磁器を扱う貿易商となります。
陶器商として陶工や画工らと制作した「濤川製」を博覧会に出品し、製品開発や市場意識の感覚を養った濤川は、第1回内国勧業博覧会(1877年)で目にした七宝の美しさに将来性を感じ、自ら七宝作家への転身を決意します。
同年、塚本貝助など尾張七宝の職人達が勤めていたドイツのアーレンス商会の七宝工場を買収し、作品作りや釉薬の改良や研究に没頭、そのあまりに執念深い様子は「狂人」と周囲から陰口をたたかれるほどだったといいます。それから2年後の1879年には、自ら「未曽有の新法」と称し、植線を省き書画を顕出する新式の製造を発明と評された無線七宝を確立しています。
七宝業への参入は後発だったものの、濤川は技法の開発や起立工商会社の製品図案に携わっていた絵師の渡辺省亭の協力を得るなど、他作家とは異なる姿勢で功績を築きました。
その名は新聞にもたびたび登場し、宮中製造品御用達七宝考案家と紹介され、博覧会に陶器や七宝を大量に準備する報や、1895年に緑綬褒章を授かった際には「七宝王の名あり」とも評されており、当時の活躍ぶりを窺い知ることができます。
無線七宝技法による七宝の更なる高み
釉薬による濃淡、ぼかしによる遠近法を可能にした無線七宝は、日本の在来技法にはない、強い個性と印象を与え、平面に特性が発揮されるのがその最大の特徴です。
濤川は自ら開発した新技法を駆使し、パリ万博では水墨画調の「墨画月夜森林図額」で大賞を受賞、また1907年の旧東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮)「花鳥の間」を飾る「七宝花鳥図三十額」で、気迫に満ちた渾身の作品を作り上げました。
濤川が生涯をかけて発明した彩釉は、各色濃淡や暈しなど合わせて実に360種にのぼります。帝室技芸員に選出された後も、日本橋の店では夫人が外国人にも英語で接客し、濤川自身は制作に没頭したと伝わっています。
「気の勝った人」であったという濤川は、号を魁香とし、「魁」を梅花で囲んでその銘としましたが、寒中でいち早く芳香を放つ梅にあやかったとされる事からも、濤川自らの七宝への誇りを感じます。