栃木県出身の日本画家です。
紋所や提灯の上絵を描く家に生まれ、本名は寛十郎といいます。
父・藤吉は素雲と号し、瀧和亭に師事して南画を学んでいました。
父の影響で幼い頃から画に親しんできた荒井寛方は、瀧和亭の勧めで浮世絵師・水野年方に入門し、歴史画、風俗画を学び、「寛方」の号を与えられ同門の四天王として活躍しました。
その後、インドの詩聖タゴールに招かれ、タゴール大学で絵画を教える傍ら、アジャンター石窟群を模写し、花鳥画家・石崎光瑤と共にインドの写生旅行に出かけ、帰国しました。
帰国後は仏教関連の題材を中心とした作品を発表しており、「仏画の寛方」と呼ばれ、大正期院展の傾向であるインド的趣向の代表者として認識されるようになります。
また、法隆寺金堂壁画の模写事業の主任画家に選ばれ、法隆寺の壁画を記録するなど大任を任されています。
晩年は斑鳩の里の阿彌陀院に住み模写に力を注ぐなど画家としての活動は衰える事がありませんでしたが、模写の旅行ついでに孫のいる福島に立ち寄った所、空襲に遭い亡くなってしまいました。