大阪府出身の大正~昭和時代に活躍した女性の日本画家です。
何気ない山村風景や自然風景など大和絵風の作品、美人画や地元大阪の風物を描き続けた事で知られています。
そこには女性特有の優雅さを感じる事ができ、女流画家の第一人者として活躍しました。
また、父親の影響で日本画以外にも多くの俳句を残しています。
国学者・生田南水の娘として生まれた生田花朝は本名を稔(みのり)といいます。
はじめは花朝と号していましたが、後に花朝女と改号しています。
父親からは俳句を学び、漢学を藤沢黄波、国学を近藤尺天から学んでいました。
そんな中、父親の俳句の弟子である四条派の画家・喜多暉月から画のてほどきを受け、24歳の時に菅楯彦に師事します。
更に菅楯彦の許しを得て美人画家・北野恒富にも師事しており、大阪画壇を代表する2人の大家に教えてもらった生田花朝の才能はみるみるうちに上達していきました。
しかし、帝展に出品しますが、連続で落選となるなど、苦しい時期を過ごす事になります。
それでもあきらめずに出品を続けた生田花朝は、女性画家として初めての特選受賞を受け、注目を浴びました。
こうして帝展で活躍を見せ、「女性だから」というハンデに負けない画に対する激しい思いで、人生の全てを画に注いでいきます。
生田花朝は自宅で制作活動を行っており、そこに訪れる人はとても多く、生田花朝の人柄と人脈の厚さを感じる事ができます。
しかし、多くの人々と触れ合っていた生田花朝ですが、画に対する思いについていける者はおらず、生涯独身を貫く事になりました。