新潟県出身の明治~昭和時代に活躍した日本画家です。
同じく日本画家の尾竹越堂、尾竹竹坡は兄で、合せて尾竹三兄弟と呼ばれています。
人物画に本領を発揮し、天性のデッサン力に恵まれた尾竹国観は、群衆の見守る中で即興画を仕上げるのを得意としていました。
幼い頃から画才を発揮していた尾竹国観は笹田雲石に「国観」の号を受け、東京学齢館の「小国民」の全国児童画コンクールに応募して一等をとった事をきっかけに学齢館主人の斡旋で上京し、小堀鞆音に入門して画を、漢学を高橋太華に学びました。
その後富山に移り、兄たちと新聞の挿画・売薬版画などを描いて生計をたてる一方、博覧会などに出品、受賞を重ねていきます。
その事が小堀鞆音の目にとまり兄・竹坡と共に上京し、再び小堀鞆音に入門し、研鑽に励みます。
20歳前後から日本絵画協会、日本美術院連合絵画共進会を舞台に活躍を見せていましたが、1908年に起きた「国画玉成会事件」で兄・竹坡と共に、岡倉天心、横山大観と対立してしまいました。
そのため、横山大観率いる「学校派」の審査員による不可解な落選を受けながらも意欲的に数々の作品を出品し続けました。
しかし、帝展の無鑑査に迎えられて出品しても芸術的新境地を開くような活動は行わず、これまでに描き続けた教科書や雑誌の挿絵やポンチ絵、絵本などメディアの仕事が注目を浴びるようになり、現在でも高く評価されています。