明治~昭和時代に活躍した新潟県出身の浮世絵師、日本画家です。
同じく日本画家の兄・尾竹越堂、弟・尾竹国観と共に尾竹三兄弟と呼ばれています。
ちなみに父親も「国石」という雅号を持つ画家だったそうで、その影響もあって画を始めたとも言われています。
本名は染吉といいますが、南宗派の笹田雲石に4歳の頃に学びを受け、「竹坡」という名を受けたといわれています。
6歳の頃には花鳥画を難なく仕上げるほどの腕前を持っており、周囲を驚かせる実力を見せていました。
富山に移ってからは生計を立てるために兄・弟と共に売薬版画の下絵や新聞挿絵の仕事をしていました。
弟が『小国民』の全国児童画の一等賞を得たことが縁となり、富山から同誌に挿絵を送るようになります。
その後、上京してからは川端玉章の門下となって本格的に日本画を学び、弟の師である小堀鞆音、梶田半古から大和絵の技法を学び、日本絵画協会、日本美術院連合絵画共進会などで受賞を重ねるなど活躍を見せます。
しかし、岡倉天心と意見が衝突すると所属していた国画玉成会を弟と共に脱会し、文展などで数々の賞を受賞して注目を浴びますが、岡倉天心や横山大観らの学校派との根強い対立や、単純で荒削りな性格が災いして第7回文展には兄弟そろって落選する結果となってしまいました。
当時の人気から落選に納得できなかった竹坡は落選の原因は美術行政制度にあるとして、後の衆議院議員選挙に立候補しましたが、ここでも落選となり、その時に生じた多額の負債を返済するため、『波の旭日』という作品を流れ作業のように制作した事で、自らの画名を落とす事となりました。
そのため、しばらくの間、「尾竹竹坡」という名は世間でもあまり知られていませんでしたが再評価され、現在では知られる存在となりました。
また、当時は高い人気を誇っていたため、多くの門人もおり、指導にあたっていました。