山口県出身の江戸時代に活躍した日本画家です。
中国元明時代の古書画の模写をするなどして研究を重ね、独自の画風を確立し、萩藩の御用絵師として高野山や京都御所の障壁画などの大事業を手掛けた事で知られています。
清楚な画風に特徴があり、山水画、花鳥画、人物画を得意としていました。
周防国富海(現・山口県防府市富海)に生まれ、生後間もなくして紺屋(染工)を営む小田家の養子となった小田海僊は、通称は良平といい、名は羸(るい)または瀛(えい)で、字(あざな)を巨海といい、号は海僊の他に百谷または百穀と名乗っていました。
22歳のとき、京都四条派の松村呉春に入門し、同門の松村景文や岡本豊彦らと名声を競うほどの腕前でしたが、頼山陽に感化され南画に転向します。
中国元明の粉本など様々な南宋の技術を研究し、自らの作品に反映させていった小田海僊は、飲み込みが早く、周囲からは「画痩の画家」と呼ばれていました。
その後、萩藩の御用絵師となり、一時江戸に滞在してから京都へ戻り、画室を設けました。
ここでは富岡鉄斎に絵を教えたとされており、川端玉章も門下にいました。
小田海僊は、梅を愛しながら鶏も飼育して20年以上も山に籠りながら、自らの芸術と向き合う悠々自適な生活を送りました。