島根県出身の明治~昭和時代前期に活躍した日本画家です。
大胆な構図に繊細な描写で描かれた作品が多く、文展や帝展を中心に活躍し、永久無鑑査となるとほぼ毎年、作品を出品し続けるなど活躍を見せました。
穀物荒物商の家に生まれた小村大雲は本名を小村権三郎といい、字は豊文といいました。
号は大雲の他にも碧雲湖畔人、紫光菴主(紫光庵主)などがあります。
高等小学校を退校し、両親の許可を得ずに上京して橋本雅邦や川端玉章の門を叩きますが断られ、仕方なく帰郷します。
帰郷すると親族会議が行われ、今度は両親の許可を得て広島で絵の修業を開始します。
しかし、訳あって脱門し、鰐淵寺に預けられる事になります。
その後、京都の森川曽文、都路華香に師事し、最終的には山元春挙の早苗塾に入門し、画技を磨きました。
第6回文部省美術展覧会で入賞を果たすと以後、3年連続で入選するなど日本画家として頭角を現し、名を上げていきました。
虎を題材にした作品も多く、得意とした図柄の一つで、20代の頃よりよく描いていました。
小村大雲は動物を描くための資料として家で飼育する事ができる動物のほとんどを自宅で飼育していたそうで、近所の子供たちに「大雲動物園」と呼ばれ人気を集めていたそうです。
また、歴史画を描く際は、武具の研究もかかさず、見事な武者画を残しており、これも全国の知人に頼み古武具の蒐集を行うなど研究して得た結果で、中には国宝鎧の模造に着手し、原寸通りに部品を作らせ2年がかりで大鎧を組み立てたというエピソードが残されています。