薩摩藩下級武士の出身。明治前期の政治家、明治維新の元勲の一人。西郷隆盛、木戸孝允とともに「維新の三傑」と称される。内務卿、大蔵卿などを歴任。
1830年、薩摩藩に生まれる。幼名は正袈裟(しょうけさ)、後に利通と改名した。
生家は御小姓組に属した。16歳の時出仕したが、薩摩藩の次期藩主をめぐる家督争い(お由羅騒動)に巻き込まれ、父親が流罪になったため罷免された。この頃、藩内の尊攘派下士たちと交わり、政治的活動に進むことになる。その後、島津斉彬が家督を継いで藩の実権を握ると、復職した。
藩主のもとで西郷隆盛らと志を通じ、同藩の改革派下士層の中心として活躍を始めた。
しかし、斉彬の死去や安政の大獄を契機に、島津久光のもとで藩の意見の統一を図り、公武合体実現のため奔走した。久光の引立てもあり、徐々に藩政の中枢へ進出するようになった。1863年、久光と一橋慶喜が政策的に対立するに至り、公武合体論に見切りをつけ、1866年に薩長同盟の締結を進め武力討幕へと大きく舵をとった。そして朝廷より薩摩藩宛に討幕の密勅を下賜させることに成功し、倒幕派の有力者として王政復古の政変を実現させ、明治維新の指導者となった。
新政府の成立と共に指導者の一人として内政の中枢を握り、版籍奉還、ついで廃藩置県を断行した。また大蔵卿に就任すると、地租改正の建議を行い、その事業を推進するとともに、富国強兵を目指して殖産興業政策を発足させた。
1871年には岩倉具視全権大使が率いる遣外使節団の米欧巡回に副使として参加した。約1年半余りの外遊から帰国してから、国力充実の必要性を説き、西郷らの征韓論を退け、内務省を新設し、事実上の首相というべき内務卿を兼任し、内務省を中心として殖産興業振興政策を進める一方、西南戦争(1877年)を鎮圧した。
しかし、内務省を基盤に独裁的な政治を進めた結果、不平士族の島田一郎らに批判され、明治11年5月14日に東京の紀尾井坂で暗殺された。