日本の明治期の政治家、初代内閣総理大臣、初代韓国総監などを歴任。
1841年、山口県に生まれる。幼名は利助、後に博文と改名した。
9歳の時に萩に移り、17歳の時に松下村塾に入門した。そこで塾生の高杉晋作、久坂玄瑞、木戸孝允(桂小五郎)らと共に尊王攘夷の志士として活躍したが、1863年にロンドンに留学。しかし4国連合艦隊長州藩襲撃の報を聞き、翌年帰国した。この留学によって欧米列強の実力を知ることとなり、開国派に転じた。
1864年の幕府による第一次長州征討によって、長州藩は幕府恭順派が実権を握るようになったが、12月の高杉晋作による藩政府打倒を目指した挙兵の呼びかけに、直ちに力士隊を率いて参列した。
明治維新後は伊藤博文と改名。初代兵庫県知事、初代工部卿、宮内卿、さらに1885年には初代内閣総理大臣に就任、4度にわたって総理大臣を務めた。1888年には初代枢密院議長になるなど新政府のさまざまな要職を歴任した。また大日本帝国憲法の草案策定にも主導的役割を果たした。
1905年には韓国総統府の設置に伴い初代統監に就任、1909年に辞任し、枢密院議長に復帰した。同年10月、極東問題に関する非公式協議のため訪れた満州ハルビン駅にて安重根に暗殺された。(享年69歳)