巌谷一六は江戸末期~明治時代で活躍した滋賀県出身の書家で、政治家でとしても活躍しました。
本名は巌谷修(いわやおさむ)といい、一六は号で別号に古梅・迂堂・金粟道人などがあります。
巌谷一六は水口藩の侍医の家に生まれ歳の時に父を亡くすと、母と共に京都を訪れ、そこで書、漢籍、医術を学びました。
後に新政府の官吏となり内閣大書記官、元老院議官、貴族院勅選議員などを歴任しています。
後に名誉職である錦鶏間祗候(きんけいのましこう)を賜っています。
錦鶏間祗候とは明治時代半ばに設けられた功労のあった華族や官吏を優遇するための資格で職制・俸給等はない名誉職でした。
巌谷一六は書家としても知られていますが書家の中でも大御所として扱われており、日下部鳴鶴、中林梧竹と共に明治三筆の一人と呼ばれています。
巌谷一六は来日した中国人書家の楊守敬(ようしゅけい)から六朝書法を学んだ後に独自の書風を確立しています。
また、巌谷一六の行草書はあらゆる書の中でもあか抜けていて洒落ているといわれています。
また、子である巌谷小波は児童文学者、従兄弟の曾孫にイオンの元社長であった岡田卓也、玄孫に大臣を務めた岡田克也がいます。