大谷光瑞は日本の宗教家で探検家、書家としても知られています。
本願寺派第22世法主で伯爵でもあります。
諱は光瑞といい、法名は鏡如上人で院号は信英院です。
また、妻は大正天皇の妻となった九条節子の姉・大谷籌子(おおたにかずこ)です。
大谷光瑞は京都で浄土真宗本願寺派の第21世法主である大谷光尊の長男として誕生しました。
9歳の頃に出家し上京して学習院に入学していますが後に退学しています。
この頃に入退学を繰り返すと京都に戻り、後に東洋大学学長や龍谷大学学長となった前田彗雲に学んでいます。
大谷光瑞は教団活動の一環としてインドへ渡り、釈迦の縁のある遺跡の発掘調査を行う大谷探検隊を結成しています。
この大谷探検隊は場所の特定が出来ていなかった釈迦ゆかりの霊鷲山(りょうじゅせん)を探し出しています。
大谷光瑞は教団の近代化に積極的に行い、日露戦争には多数の従軍布教使を派遣し、海外伝道も進めています。
その他にも築地本願寺を作った伊藤忠太の設計で二楽荘を建設し、文化活動の拠点としています。
その後、大谷光瑞は孫文と会見したのがきっかけとなり中華民国政府の最高顧問に就任しています。
しかし、教団の収入を湯水のように使い、財政破綻を招いたといわれており、責任を追及された後に法主、伯爵の地位から引退しています。
引退後は満州での布教を積極的に行い、農園を経営していました。
また、近衛、小磯の両内閣で参議や顧問を務めています。