太田垣蓮月は江戸時代に存在していた尼僧で歌人、陶芸家としても知られています。
俗名は誠(せい)で菩薩尼、陰徳尼とも称されていました。
太田垣蓮月は京都の生まれです。
父は伊賀国上野の家老、藤堂良聖(とうどうよしきよ)で、太田垣蓮月は生後まもなく京都知恩院門跡に勤士する太田垣光古(おおたがきみつひさ)の養女となっています。
幼き頃は、但馬亀岡城に奥勤めとして奉公しており、薙刀などの諸芸を身につけています。
17歳になると太田垣家の養子であった望古(もちひさ)と結婚し、一男二女を授かっていますが、いずれも幼くして亡くなっています。
その後、主人である望古も亡くなり、25歳で未亡人となってしまいました。
それから4年ほど経った頃に太田垣家に入家した古肥(ひさとし)と再婚し娘を授かりますが、その4年後にまたもや主人が亡くなってしまいます。
こうして葬儀の後、養父と共に知恩院で剃髪を行い蓮月と名乗るようになりました。
蓮月を名乗るようになってから2年後に7歳の娘が亡くなり、太田垣蓮月が42歳の時に養父を亡くしています。
その後は岡崎、粟田、大原、北白川などを転々としながら急須や茶碗などを制作して生計を立てていたといわれています。
そのような生活をしているうちに徐々に名前が知られるようになり、自作の和歌が書かれた太田垣蓮月の焼物はいつしか「蓮月焼」と呼ばれるようになり人気を博します。
もちろん贋作が多く出回るようになりますが太田垣蓮月は「自分の模倣品で他者が食えるのなら」と容認していたそうです。
それどころか他者の作った器に蓮月自身が和歌を彫り込んだり、贋作と蓮月自身の作品を混ぜて販売させた事もあったという太田垣蓮月の人柄を感じるエピソードもあります。
太田垣蓮月は人気が出ても質素な生活を続けています。
飢饉のときには三十両も匿名で奉行所に寄付したり、資材を投入して賀茂川の丸太町に橋を架けたりしています。
その後の太田垣蓮月は西賀茂にある神光院に茶所を間借りし、境内の清掃や作陶をしながら日々を過ごし85歳でこの世を去ります。
太田垣蓮月との別れを惜しんだ人々や西賀茂の住人が総出で弔ったといわれています。
そのため太田垣蓮月の作品は彼女の人柄を感じる事が出来るといわれています。
書の作品であれば、自詠の和歌を穏やかで張りのある墨線が特徴です。
茶器などの陶芸作品であれば自作の和歌を淡々としたタッチで書き付けられています。
太田垣蓮月の作品はどれも美しいだけではなく瑞々しいといわれており、侍童として一緒に生活していた富岡鉄斎の人格形成や作風にも大きな影響を与えたといわれています。