日本の小説家。
本名、尾崎徳太郎。
1868年、東京都に生まれる。
1872年 母親と死別し、母の実家で養育される。幼年時代は近所の子供たちのいろはカルタの読み役を務めたり、十歳頃には新聞ごっこをしたという。
1883年には東大予備門に入る。18歳の時に山田美妙、石橋思案らと「硯友社」を創設し、回覧機関誌「我楽多文庫」を創刊した。この頃から「紅葉」の雅号を用いるようになった。当時、紅葉は本気で文学をやろうという気はなく、趣味的に詩、俳句、小説、川柳など多彩な活動をしていたが、社友が増えるに従い、反響も大きくなってきたため、88年から公売した。同年に東京帝国大学法科に入学したが、翌年に國文学科に転科した。
1989年の23歳の時、「二人比丘尼色懺悔」を発表し、本格的な文壇レビューを果たした。この作品では、当時の新しい文体である、会話を口語体にしながら他は文語体という雅俗折衷の文体を使っている。この作品が評判となり、同年12月には学生のまま読売新聞社に入社し、文芸欄を担当することになった。いわば専属作家である。
翌年には大学を中退し、文筆業に専念する。同人誌にも力を入れ、門下から泉鏡花、田山花袋、徳田秋声らを輩出した。以降、「伽羅枕」「紅白毒饅頭」「三人妻」「心の闇」など力作を新聞紙上に発表し、20歳代にして文壇の大家と見られるようになった。
江戸期から明治期という時代を生きた紅葉は、江戸文学の影響を受けつつ、外国作品などから文学精神、技法を取得し、様々な手法を試み新しい近代文学への架け橋となった。「多情多恨」の作品では「である調」の文言一致体を試みたり、「三人妻」では、これまで題材とされてこなかった実業家の像を初めて描くなど、明治中期の社会相を受けた題材も取り上げている。
1897年からは「愛は黄金にまさる」という平凡なテーマを、日清戦争後の社会を背景とした美文に満ちた大作「金色夜叉」の連載をスタートさせたが、1903年に没した。享年35歳。