日本の歌人、詩人。
本名、石川一(はじめ)。
1886年、岩手県で曹洞宗住職の長男として生まれる。
中学時代に、後に妻となる堀合節子や、親友の金田一京助らと知り合う。与謝野晶子の「みだれ髪」で歌の道を開かれ、上級生の野村胡堂らの影響を受け、文学に熱中した。
1902年10月に中学を退学し、文学を志し上京するが、病を得て、翌年2月に帰郷した。帰郷後、岩手日報に評論を連載するとともに、「明星」に短歌、長詩「愁調」を掲載して注目される。この頃、啄木と号するようになった。
1905年には処女詩集「あこがれ」を刊行した。一方、父が宗費滞納の理由で住職を罷免されることになったため、一家扶養の必要から結婚して文芸雑誌「小天地」するものの、一号で廃刊となった。翌年には渋民村の代用教員となった。その間、「雲は天才である」を書いた。その後、新天地を求めて北海道へ渡り、新聞記者等をやりながら道内を転々とするが、文学への志を絶ち切れず、家族を函館に残し、1908年単身上京する。
東京朝日新聞社に校正係として就職すると、家族を呼び寄せた。その後「朝日歌壇」の選者になったり、「明星」や「スバル」の短歌、小説、評論など精力的に作品を発表していった。
1910年、6月の大逆事件を契機として、社会主義思想に共鳴し、評論「時代閉塞の現状」や長編詩「はてしなき議論の後」などを書き、新時代の啓蒙を志すようになった。同年に処女歌集「一握の砂」が刊行され、歌人としての名声を得た。
しかし、翌年、病に倒れ、1912年4月に肺結核のため波乱に富む生涯を終えた。享年26歳の若さだった。死後2か月後に第二歌集「悲しき玩具」が刊行され激賞された。歌を初めて万人のものとした薄倖の天才詩人として、彼の人となり、その作品は文学史に刻まれている。