日本の小説家。
本名、芥川龍之介
1892年、東京市京橋区で生まれる。生後7か月のとき実母が精神障害をきたしたため、母の実家に引き取られ、12歳のとき芥川家の養子となった。
小学校時代から成績優秀で、江戸文学や中国文学などを愛読。中学校から無試験で第一高等学校に入学した。同級生に山本雄三、菊池寛、久米政雄らがいた。このころ、西欧文学にも愛読した。大正2年に東京帝国大学英文学科に入学した。在学中に夏目漱石門下に入った。大正4年に「羅生門」を発表。大正5年には第四次「新思潮」の創刊号に「鼻」を発表し、漱石に激賞された。これを契機として文壇への第一歩を踏み出した。
大学卒業後は海軍機関学校に教官として勤務しながら創作活動する。翌年6年には初の短編集「羅生門」を刊行。11月には第二短編集「煙草と悪魔」を刊行した。これらの短編集のほとんどは説話文学を典拠とした歴史物であり、歴史小説「奉教人の死」などとともに、これらの作品は洗練された技巧的文体で巧妙に展開される小説であり、新技巧派・新理知はと称された。
大正7年には結婚とともに東京田端に居を構えて執筆活動に入る。「舞踏会」「藪の中」「地獄変」「蜘蛛の糸」など、才気あふれた好短編を送り出している。翌年8年には「蜜柑」「秋」など作風は次第に現代生活を題材にしたものへと変化していった。10年には中国各地を初稿するが、途中で健康を害し帰国するが、胃腸病や神経衰弱や不眠が続き、「保吉もの」と呼ばれる「保吉の手帳から」など自伝的要素の強い作品を書くなど自己内省的、実生活を題材にした私小説的作品になっていった。
その後、プロレタリア文学が起こり、これらと自己の文学との対決を迫られる。健康状態も好転せず、精神的な衰弱も続いていたが、不安と懐疑の中で「玄鶴山房」「河童」など、文学の在り方に対する自らの思想である「詩的精神」の最後の輝きともいえる作品を発表している。
昭和2年7月、睡眠薬による服毒自殺し自らの命を絶った。享年36歳。8年後の昭和10年、友人だった菊池寛は芥川の業績を記念して新人文学賞「芥川龍之介賞」を創設した。今日まで日本で最も有名な文学賞として続いている。