明治期の美術評論家、思想家。
幼名は覚蔵、後に覚三。天心は号。
1863年2月14日、横浜で福井藩士の次男として生まれる。教育熱心な父親の方針により、住職から漢籍、宣教師から英語を学ぶなど国際性豊かな基礎が築かれる。
1873年、東京外国語学校(現・東京外国語大学)に入学。75年に東京開成学校(後の東京大学)に入り、80年に同校を卒業する。その間、16歳の時に基子(13歳)と結婚している。大学では政治、理財学を学び、卒論は初め「国家論」を書き上げたものの、ケンカした妻に焼かれてしまい、急いで「美術論」を書いて提出したとの逸話がある。この2つの視点が、それからの天心の基本的立場を著わしている。
卒業後は文部省に入省。大学時代から通訳などで親しくしていた大学講師・アーネスト・フェノロサの日本美術研究に協力する。1886年の時にフェノロサと共に欧米の美術視察のため出張する。89年には東京美術学校(現・東京芸術大学)が開校し、翌年校長となる。90年から同校で3年間行った講義「日本美術史」は日本美術史研究の嚆矢となる。
1898年、校長の職を退き日本美術院を創立。横山大観、下村観山、菱田春草らを率いて新しい日本画の創造運動を進め、新たな作風「蒙朧体」を完成させる。1901年にはインドに渡り、翌年にかけて仏跡を巡る。インドの詩人ラゴールとの交流を深めたのもこの頃である。
40歳になって以降、日本および東洋の文化の優秀性を、国内ばかりでなく広く海外にも紹介していく。1903年「The Ideals of the East」(東洋の理想)をロンドンで出版。4年には「The Awakening
of Japan」(日本の覚醒)、6年には「The Book of Tea」(茶の本)をいずれもニューヨークで出版する。
1904年、米国のボストン美術館・中国・日本美術部に勤務。1910年に同部長となるなど、日本美術の紹介に尽力した。
1913年9月2日、逝去。享年50歳。