戦国時代から安土桃山時代の武将。全国統一の先駆けをなした。
1534年、尾張国の那古野城で、織田信秀の嫡男として生まれる。幼名は吉法師。幼少期から奇行が目立ち、「尾張の大うつけ」と呼ばれた。12歳で元服し、信長と名乗るようになる。16歳の時に斎藤道三の娘・濃姫と結婚する。2年後の1551年、父・信秀が亡くなり、家督を継ぐ。その後、国内の内紛や謀反を鎮圧し、1559年までにほぼ尾張国内を統一する。
1560年に桶狭間の戦いで駿府の今川義元を破ると、三河国の徳川家康と清州同盟を結び、徐々に勢力を拡大していった。1567年に美濃を攻略し、斎藤氏を滅ぼす。この頃から「天下布武」の朱印を用いるようになり、天下統一を目指すようになる。68年には上洛し、
足利義昭を将軍に詩、堺を屈服させるなど機内の制圧に乗り出す。
1570年になると敵対する浅井・朝倉の連合軍を姉川の戦いで破り、翌年は比叡山・延暦寺を焼き討ち。73年には要軍・義昭を追放し、室町幕府を滅ぼす。その後は事実上の天下人となり、1577年の長篠の戦いで甲斐の武田勝頼を撃破、80年の石山本願寺を屈服させるなど一向宗を掃討し統一政権を樹立する。1582年6月、中国の毛利氏の征伐に赴くが、本能寺において明智光秀の謀反に会い、嫡男・信忠とともに自害する。享年49歳。
信長と直接会った宣教師・ルイス・フロイスの記録によれば、長身痩躯でひげは少なく、声は感が書く、粗野な印象だと記している。南蛮への関心が高く、西洋帽子やビロードのナントなどの洋装を好んでいたという。
また信長は、初めて鉄砲を戦法として実戦に使用したり、検知や楽市・楽座などの実施、キリスト教の容認など、古い制度やしきたりにとらわれない革新的な政策を実施した。