江戸時代の文人画家。
名は孝弼(たかすけ)、字は君輔(きんすけ)、通称は兵右衛門。
1745年、岡山藩の支藩・鴨方(かもがた)藩士の末子として生まれる。若い頃から琴の名手として知られ、35歳の時、明の顧元昭の七弦琴「玉堂清韻」を入手したことから「玉堂琴士」と号するようになった。
1781年には大目付役に昇進するほどの上級藩士だったが、43歳で罷免される。玉堂が弾琴や漢詩、書画などに情熱を傾ける生活を続けたことで周囲の評判はあまり芳しくなく、また贅沢の象徴だった田沼時代が終わり、禁欲生活を強いた寛政の改革の時代に入ったことも一つの原因として指摘されている。1794年、50歳の時に脱藩し、春琴、秋琴の二人の息子とともに、琴を弾き、詩や絵を描きながらの旅にでる。
まず大阪に出て文人画家でもある木村巽斎(そんさい)の所に滞在。讃岐高松で漢詩集「玉堂琴士集」を刊行する。そして四国、江戸、会津を旅する。会津では次男の秋琴が会津藩に仕官した。1796年に再び江戸を経て京都にしばらく滞在。1805年、61歳の時に九州に渡り長崎や熊本を巡る。さらに1808年には水戸、会津、飛騨、金沢などを廻り、1811年に京都に戻る。脱藩して旅を重ねるごとに、その芸術的天分は磨きがかかり、気韻と高潔な独自の山水画を極めていった。深い憂愁感ただよう「凍雲篩雪図」「煙霞帖」、落ち着いた澄明感を醸し出す「山紅於染図(さんこうおせん)」、動きのある「鼓琴余事帖」など佳作で知られている。昭和初期に来日したドイツの建築家ブルーノ・タウトは玉堂の絵画を見て、ゴッホの絵に匹敵する近代日本の最高の画家だと賞賛している。
1820年10月、京都で逝去。享年76歳。