江戸時代に活躍した文人画家、書家です。
ダイナミックな筆使いで南画の新境地を開き、与謝蕪村とともに日本の文人画(南画)の大成功者とされています。
中国の故事や名所を題材とした大画面の屏風、日本の風景を軽妙洒脱な筆致で描いた作品など作風も変化に富んでおり、中国渡来の画譜類のみならず、室町絵画や琳派、更には西洋画の表現を取り入れ、独自の画風確立し、人気を博しました。
京都銀座役人の下役の子として生まれた池大雅は、本名は池野といいます。
なぜ「池」と名乗っていたのかというと、中国の画に傾倒していた事が大きく、中国風に名乗るためでした。
そんな池大雅ですが、幼くして父親が亡くなり、母親と二人で暮らしていました。
その暮らしは決して裕福なものではなかったのですが、幼い頃から漢文や書道に優れた才能を示し、15歳の頃には扇屋を構え、扇子に絵を描いて生計を立てていました。
ちなみに画は柳里恭(柳里淇園)に才能を見出され、文人画の手ほどきを受けました。
そんなある日、京都の八坂神社の境内に露店を出し、いつものように自分の作品を売っていた池大雅は同じ境内で茶店を出していた百合と名乗る女性と親しく交流するようになり、その百合の娘・町と結婚する事になりました。
町も玉蘭の名で画家として活躍しており、天才同士の結婚となりました。
しかし、この二人、少し周りの感覚とはズレており、池大雅が訪問者を見送りに行くといって家を出て行った際、何日も帰って来なかった事がありました。
数日経ってから戻った池大雅は「富士山のふもとまで見送ってきた」といい、町は池大雅に何をしていたのかと問い詰める事はなく、「おかえりなさい」と一言かけただけでした。
この他にも大阪の書画の会に招かれた池大雅は絵筆を忘れて家を出てしまいました。
もちろん、町はその事に気付き、池大雅を追いかけ、大阪に着く前に絵筆を渡す事ができました。
しかしこの時、池大雅は相手の顔を良く見ずに「どこのどなたか存じませんが拾ってくれてありがとう」と言い残し、去っていきました。
どうやら絵筆を落としたものだと思っていたようです。
また、町も自分だと気付いてもらえていない事に怒るわけでもなく、「いいえ」とお辞儀をして自宅に戻ったそうです。
このように池大雅と町は周りから見れば仲が悪いと誤解される事も多かったようですが、二人にしか分からない絆で結ばれており、池大雅は自分が亡くなる直前に、町のために数百点の作品を残したそうです。
池大雅が町のために作品を残した意図を公言した事はありませんが、人気画家となっていた池大雅の作品は、「いざという時は売ればお金になる」という池大雅の町への感謝の表れだったと言われています。
池大雅は中国明時代に活躍した文人・董其昌の「万巻の書を読み万里の路を行く」という文人画の方法論に従ったためか、旅と登山を好み、その体験は大雅の絵の特色である広々とした絵画展開と、リズム感のある描線となって生かされている事が作品を見ると分かります。
また、画家としての誇りは高く、権力や金を積んで絵を依頼してくる者に対しては冷たくあしらい、自分の絵を心から愛してくれる人を見極め、仕事の依頼を受けていました。
そのため、人気画家であるにも関わらず、家計は常に火の車だったようで贅沢は一切していなかったそうです。