江戸時代中期の画家。
名は汝鈞(じょきん)、字は景和、号は若冲、また斗米庵、米斗庵とも号す。
1716年3月、京の青物問屋の長男として生まれる。1738年、父の逝去により家督を受け継ぐ。家業のかたわらで、絵を本格的に学び始める。最初は狩野派の技法から入ったものの、狩野派から学ぶ限り、それと異なる自分の画法を築けないと考え、独学で腕を磨いていった。さらに中国画を所有する寺院に通い模写をしていく。模写は1000点に及ぶといわれているが、原型を超えることはできないと限界を感じ、描く対象を、目の前の対象(実物)の写生へと移っていき、写実描写様式を完成させていくことになる。
1755年になると、家督を弟に譲り、画業に専念する。写実のため庭で数十羽の鶏を飼い始めるが、鶏の生態をひたすら観察し、そして一年が過ぎる頃に生き物の内側に神気をとらえ、おのずと鉛筆が動き出したという。鶏の写生は2年以上も続き、草木や岩までも神気が見え自在に描けるようになったといわれている。
1758年頃から代表作となる三十幅にも及ぶ花鳥画連作群「動植綵絵(さいえ)」の制作に着手する。身近な動植物をモチーフとし、10年近くの歳月をかけて完成させ、日本美術史における花鳥画の最高傑作となった。また同時に水墨画、版画、絵巻、屏風絵など数多くの作品も手掛け、京でブレイク中の丸山応挙とともに絵師として確たる地位を築いた。
1788年には京で発生した大火災によって住居も画室も焼失、70歳を過ぎて初めて生活のために絵を描くことになる。90年には京の深草に庵を結んで終の棲家とする。晩年には、石峯寺の五百羅漢像や天井画などの制作に力を注ぎ、羅漢像は10年弱で完成する。
1800年10月、逝去。享年84歳。生涯独身だった。
若冲は、釈尊入滅を描いた「果蔬涅槃図」では絵の登場人物をすべて野菜に置き換えて描くなど奇想な画家としても有名で、生存中は名声を博していたが、明治以降は一般には不当に評価が低く忘れがちな時期もあった。しかし20世紀後半から再評価が進み、1990年代後半以降、超絶な技巧や奇抜な構成など独創性豊かな京都を代表する絵師として、飛躍的に知名度と人気を高めている。